1 事件の発生
一九五五(昭和三十)年六月ころから八月にかけて、近畿地方以西の西日本一帯で、ドライミルクを飲んでいる乳児に原因不明の病気が集団的に発生した。「人工栄養児に奇病!原子病に似た症状」「ドライミルクの恐怖、各地に死者続出」と新聞各紙は書きたてた。岡山大学附属病院の浜本英次教授(※注)は、乳児がいずれも森永ドライミルクを飲用していて、しかも乳児の症状がひ素中毒に類似しているため、法医学教室にひ素分析を依頼した。その結果、乳児が飲めば中毒を起こす量のひ素が検出された。八月二十三日のことである。
翌八月二十四日のラジオ、新聞はいっせいに森永乳業徳島工場製のMF印の缶に猛毒のひ素が混入しそれが奇病の原因であることを報道した。厚生省はすぐさまMF缶の回収を指示し、徳島工場の閉鎖を命じ、ひ素混入の経過の究明に乗り出した。
(※注)浜本教授は八月五日ごろにすでに患者が共通して同じ製品のドライミルクを飲んでいることに気づいていたことが手記で明らかになっているが、早期の公表に躊躇している。それは後日の記者会見で「森永乳業は乳幼児栄養に貢献が大きい。医学界にもいろいろ援助してもらっているし…」と語ったことからも、彼には企業への遠慮があったものと見られている。
・なぜミルクに猛毒のひ素が入ったのか
調査の結果つぎのような経過が明らかになった。
工場にたくさん集まってきた原乳のPH(ペーハー)が酸性になると乳蛋白が凝固し加工できなくなる。そこでPHを一定に保つ乳質安定剤として第二燐酸ソーダを使用していた。しかしこのときに使用した「第二燐酸ソーダ」が元をたどれば、日本軽金属清水工場でボーキサイトからアルミニウムを製造する過程でできた廃棄物を脱色再結晶させた物で、化学的には第二燐酸ソーダとはまったく異なる物質であった。実はその物質が、ひ素などの有害物質を大量に含んでいたのであった。
にもかかわらず、使用に当たって森永はその「第二燐酸ソーダ」の安全性を検査せずに安易に使用した。国もその流通過程で静岡県知事から毒物に当たるかどうかの照会があったにもかかわらず、適切な措置をとらなかったばかりか、事件発生後の一九五五(昭和三十)年十一月になって転売許可の通知を出したことが判明している。森永はもちろんのこと国(厚生省)の責任も重かったといえる。
ひ素ミルク中毒児の急性症状
人工栄養児をもつ親はわが子の健康を案じて病院や保健所に殺到し、外来診察室は患者と家族で火事場のような騒ぎであった。ひ素中毒の乳児は、発熱、睡眠不良、咳、流涙、嘔吐、下痢を発症し、やがて皮膚が黒ずむ、肝臓がはれるといった症状を見せた。また、吐乳や下痢のため栄養不足と脱水症状、貧血症状も引き起こしていた。これらの症状はひ素入りミルクの飲用を中止し、解毒剤であるバルを投与するなどの治療を開始すると急速に回復していった。
一九五六(昭和三十一)年六月九日の厚生省発表によると、被害者数は一万二千百三十一名(※注)、死者は百三十名であった。
この事件の被害者が乳幼児であったこと、また毒物が混入された物がその乳幼児の唯一の生命の糧であったこと、その結果、乳児から絶対的に信頼されている母親たちが自らの手で毒物を与えてしまったこと、そして食品公害としては極めて大規模なものであったということなどから、まさに人類史上例を見ない悲惨な事件であったといえる。中坊公平氏は「赤ちゃんは無条件に父や母を信じて生きていくのが人類の大きな特徴。これを裏切らせる行為を強いた、これが森永ひ素ミルク中毒事件の本質」と語っている。
(※注)ひかり協会が認定した被害者も合わせると二〇〇五(平成十七)年四月現在把握している被害者総数は一万三千四百二十二名である。
2 被害児の親たちの闘いとその限界
・被災者同盟(「全協」)の結成、
事件が発表されたわずか三日後の八月二十七日に岡山日赤病院で、岡崎哲夫氏が発起人となって「被災者家族中毒対策会議」が結成された。被害児の親たちは次々に組織をつくり、九月三日には岡山全県下の被害児の家族七百名が集まり総決起集会を開き、森永乳業との交渉を開始した。その後、他の府県でも府県単位の組織がつくられ、九月十八日にはこれらの代表が集まって「森永ミルク被災者同盟全国協議会(「全協」)を発足させた。全協は短期日のうちに二十八都府県に散在する被害者の約半数を組織したが、その後八ヶ月間にわたる闘いは悲壮なものとなった。
全協は、①治療費などの全額負担 ②後遺症に対する補償 ③死亡者二百五十万円などの慰謝料を森永に要求した。この全協の要求内容と世論を背景にした行動力に危機意識をもった森永側は厚生省に対して「解決」を依頼した。森永の要請を受けた厚生省は、「全協」側には何の相談もなく、有識者五名を構成メンバーとする「五人委員会」をつくり、「解決」を図ろうとした。このメンバーの中に森永と関係のある人物がいたり、委員会費用を日本乳製品協会という企業団体が負担したりしていたことからも、この委員会が公平中立でなく森永に味方するものと言われても仕方がない「第三者機関」であることがわかる。全協はこの委員会を認めなかった。
・「五人委員会」の意見書と「全協」の解散
はたして、十二月十五日に五人委員会が発表した意見書は、①死者に対する補償金は一人二十五万円(すでに十万円を出していたため十五万円の追加金を出す)②患者に対する保証金は一人一万円。(すでに入院患者には一万円出していたが更に上乗せして二千円の追加金を、通院患者には五千円を出していたため五千円の追加金を出す) ③後遺症の心配はほとんどない など、会社に都合のよいものであった。
加えて、親たちの真の願いである子どもの回復と後遺症に対する配慮の要求が世間に理解されないまま、慰謝料などの補償金問題だけがマスコミ報道されたり、森永の負担能力の限界という宣伝もあったりするなか、全協の闘いはゆきづまりを見せ始める。森永は五人委員会の意見書を盾に強硬な姿勢を崩さず全協の要求を聞こうとはしなかった。
やがて、生活をかかえた若い親たちに疲労の色が濃くなり、会社の裏面工作による組織へのゆさぶりも加わり、戦術の転換を余儀なくされるのである。「非常に屈辱的」と感じながらも妥結案をのんだ全協は、一九五六(昭和三十一)年四月二十三日ついに解散し、八か月にわたる闘いの幕を閉じた。
(妥結案)
①森永乳業は、厚生省の精密検診実施に努力する。将来医学上後遺症と認むべき事例が確認されたときには誠実にして妥当な補償を行なう
②全協はその結成の目的を達したものとして解散する
③森永乳業は全協が結成以来要した費用(六百五十万円)を解散後に支払う など
・被害者、完全に切捨てられる
しかし親たちの不安は消えなかった。いたいけな乳児がこれだけ激しい中毒症状を示し生死の境をさまよったにもかかわらず、外見的に回復したとはいえ、今後順調に生育できるのか、後遺症は残らないのかという心配が脳裏から消えなかった。それにもかかわらず、全入院患者に二千円、通院患者に五千円という追加金が現金書留で送られ、マンナ(ビスケット)二缶がわたされ、これだけの大惨事であった事件はすでに幕を引かれていた。それからは、被害児を連れて医者に行っても「森永ひ素ミルク中毒の子ども」と言っただけで、多くの医者が冷たい態度になるか迷惑そうな顔をした。
一年後に精密健診が実施されたが、これは前年に厚生省の肝いりで設けられた「西沢委員会」(小児科学会の権威、大阪大学の西沢義人教授が委員長)が答申した「治癒判断基準」に基づいて判定された。この「治癒判断基準」は、科学的かつ人道的であるべき小児科専門医学者の委員会が出したものであったが、周到さに欠け、結果として被害者側に立たない、加害者側に極めて都合のよいものであった。そのとき要治療と判定されたものは九十名とされ、やがて四年後にはなんと全員治癒と判定されるのである。この精密検査も大半が、「聴診器を二~三回胸に当て、口をあけてー」という程度のものであったという。当時の森永乳業と国(厚生省)と医学界が緊密に癒着して、被害児と親たちを完全に抹殺したのである。
世界でも例のないほど大規模に乳児にひ素を飲ませたという痛ましい事件の被害者が完全に切り捨てられたことは、日本の公害事件史のなかで特筆されるべきことである。
このような結果を招いた要因は、基本的には、今日では想像できないような当時の高度経済成長を目指した企業優先、人命軽視の国の政策であり、そのもとでの苛烈な被害者切捨て攻撃である。この攻撃に対する「全協」側の限界(弱さ)があったことも否めない。しかしそれは教訓化され、後日、丸山報告後の再結集時には「各地の組織の協議体ではなく全国単一指導部のもとで全国単一の方針を確立し、会員の力に依拠して闘う」「金銭賠償よりも、子どもらの恒久的な救済をという親の願いを基本にすえた運動」「厚生省は第三者の立場でなく、被害者側の立場に立つこと」といった方針が前面に出され、守る会運動は成熟した方向へ向かっていくのである。
3 岡山県「子供を守る会」、ともし続けた闘いの灯
・岡山県だけで残った親たちの運動
西日本各地で立ち上がった親たちが結成した被災者同盟(「全協」)は八か月の闘いで解散に追い込まれ、各地の被災者同盟も消滅していった。やがて世間からも忘れ去られていき、その間に子どもたちは小学校に入学し、中学生になった。救済の手は差し伸べられないまま、不運にも重症な子は亡くなり、障害の重い子は在宅で「就学猶予・免除」の扱いを受けた。一部は養護学校などに通い、虚弱な子は入退院を繰り返していた。
消えてしまったかのように見られていた親たちの運動だったが、岡山県では全協が解散した二か月後の一九五六(昭和三十一)年六月二十四日に「岡山県森永ミルク中毒の子供を守る会」(一九六二〈昭和三十七〉年には岡山県の文字を除き「森永ミルク中毒のこどもを守る会」)が結成されていた。被害児の今後の健康管理、救済措置の完遂、親同士の親睦を願っての集まりであった。会の主意書に「…子らが孤立して無援な情勢下に見捨てられることは、私達親として誠に忍びざる所である…子供達が普通の能力と健康とをもって社会生活を送ることが出来るように努力すると共に、私達が当初より抱き来たった社会正義の推進のため、広く社会有識者と提携してこの任務を発展させることを誓うものである」とある。ひたすら「子供を救い守る」という親の一念が運動継続の根底にあった。こめられた親の願いとともにこの組織が、今日まで続く守る会の母体となるのである。
・水島協同病院での集団検診
「子供を守る会」は森永や岡山県に対して被害児の継続的精密検診などをくりかえし要求し続けた。しかしマスコミの反応もなく、孤立無援の運動を続けるしかなかった。事件が発表された八月二十四日にもっとも近い日曜日に例年開催していた総会も、十周年の年をのぞけば毎年十名程度の参加者しかいなかった。しかし地道な活動が、やがて次の丸山報告の裏づけともなる実績を生むのである。「子どもを守る会」は一九六六(昭和四十一)年に岡山県に精密検診を要請した。この後検診が実施されるが、大半の被害児は「治癒」と判定される。親たちは子どもたちの実態からみてこの結果は納得できないとして、県下の理解ある医療機関に再度の検診を要請した。守る会の要請を受けた「岡山県薬害対策協議会」の遠迫(えんさこ)克己医師が検診の話を新日本医師協会に持ち込み、一九六七(昭和四十二)年に水島協同病院において三十五名の集団検診が行われた。その担当をしたのが第2章で登場する松岡健一医師である。その結果肝臓肥大、腎臓障害、発育・知能の遅れ、皮膚の疾患等多様な症状が発見された。そしてこの結果は、後日丸山報告を臨床的に裏付ける有力な根拠とされるのである。
4 「14年目の訪問」(丸山報告)と守る会の再結集
・救世主、丸山博教授の出現
事件発生後十四年の年月を経て、突然、被害者とその家族にとってまさに救世主とも呼ぶべき学者が現れるのである。
一九六九(昭和四十四)年十月三十日に岡山市で開かれた公衆衛生学会において、大阪大学医学部衛生学教室の丸山博教授らは「十四年前の森永MFひ素ミルク中毒患者はその後どうなっているか」と題して、被害児六十七名の追跡訪問調査の結果を発表した。
それに先立って、十月十八日丸山報告は「十四年目の訪問」と題する冊子にまとめられ学内の教材として提出された。これを受けて十月十九日の朝日新聞(大阪)が一面全部を使ったセンセーショナルな報道を行った。これに端を発し、各マスコミも大きく取り上げるところとなり、連日紙面やラジオをにぎわした。森永乳業にとっても行政当局にとってもまさに「晴天の霹靂(へきれき)」ともいうべき出来事であった。
・あきらかに被害者に後遺症がある
実は、この「十四年目の訪問」と呼ばれている大阪府下を中心とする地域に住む被害者の実態調査は、たまたま丸山教授に教えを請いにきた大阪府堺養護学校の養護教諭、大塚睦子氏の学校に被害者が在籍していたことに端を発している。丸山教授の指導のもと、大塚氏はじめ保健婦、医学生、医学者らで「森永ひ素ミルク中毒事後調査の会」をつくり、事件当時の古い名簿を頼りに一軒一軒被害者の家を訪問し、親から直接に中毒時の状況、成長過程や現状を聞き取っていった。その調査の結果、六十七名中なんと五十名になんらかの異常が認められたのである。これは、被害者に後遺症が存在することを疑わせるのに十分であった。これをもとに丸山報告がされたのである。
きっかけは偶然であったともいえるが、戦前から乳幼児の死亡問題を研究テーマとしていた丸山教授の問題意識のなかにあり続けた事件に対する強い関心と、高い倫理観に裏打ちされた衛生学者としての実績と慧眼(けいがん)がなければ、このような展開は望むべくもなかった。被害者とその家族たちの中で、丸山教授を救世主と呼ぶことに異論をはさむ者は誰一人いないであろう。
・被害者の親たち、再び結集する
いよいよ事件は社会問題として再燃した。結成いらい孤立無援であった岡山県「子どもを守る会」を核にして、全国の被害者の親たちは再び結集し被害者救済に向けての大きな闘争が開始されるのである。丸山報告の一か後の十一月三十日に、十三都府県から百五十人の親たちが岡山に集まり、多数の支援者やマスコミが見守るなかで「森永ミルク中毒のこどもを守る会」(以下「守る会」)第一回全国総会が開催された。総会の最後に岩月祝一理事長は「私達は今日まで金をもらうために運動したのではない。過去十四年間の伝統と実績の上に立って、あくまで被害者運動の純粋性と人道性を守っていくことを誓う。万一これでお気に召さない方がおられるならば、即刻退場願って結構です」とあいさつし、北村藤一顧問も「この守る会を自らの瞳のように愛し守ろう」と全国単一組織を呼びかけた。これは現在も変わらず、規約前文で「守る会は、過去の歴史に学び、組織を尊重し、かつ全国単一組織制度を堅持する」と明記している。
こうして守る会は全国組織として再構築され、各地で都府県の支部が結成されていった。支援団体もつぎつぎに生まれ、保健・医療関係者、法律家、教育関係者、各種団体と個人等が「対策会議」を各地で結成し、守る会と協力した闘いを日本中に発展させていくのである。
5 恒久対策案の実現めざし、訴訟と不売買運動
・森永乳業、責任逃れと高姿勢な態度
守る会は再結集後の第一回全国総会で、しばらくの間、組織の整備と後遺症の究明に力を注ぐため、向こう一年間は森永乳業と交渉しないという方針を出した。守る会は不用意に森永と接触することを意識的に避けていた。事件発生当時の苦い経験からくみとった教訓からくるものであった。やがて被害児の実態が究明されるにつれて一日も早い救済が必要な被害児が多数いることが明らかになった。また、後遺症の存在が科学的に証明されつつあった。そこでいよいよ守る会は森永と交渉を開始するのである。交渉は本部交渉と現地交渉と並行して行い、全会員の全国的な結集を図った。
しかし、森永は事件発生当時と同じように被害者の諸症状はひ素ミルク中毒によるものであるという因果関係を認めようとせず、「森永乳業は悪徳業者にだまされた」などと責任のがれと高姿勢な態度に終始した。一方、厚生省は守る会の事実と道理に立った要請に過去の誤りを認め、行政の責任についても認め、さらには森永の責任についてもはっきりしているという見解を示し、森永とは対照的な態度をとり始めていた。森永側は十四年間の社会情勢の変化による世論の厳しさ、支援の輪の広がりと守る会運動の担い手たちの成熟を甘く見ていた。
守る会の追及のなか、森永は「恒久措置案」を提示することを約束し、一九七一年十二月に「森永恒久措置案」を守る会に示した。その中身は「因果関係を問わず、道義的責任を全うするため」としており、「困っているなら何とかするから、因果関係とか、企業責任とかは言うな」という高姿勢なものと守る会は受け止めた。
・「恒久対策案」の作成とその実現に向けて
守る会は、このような「森永恒久措置案」を全面的に拒否し、全国の会員の要求を結集し「森永ミルク中毒被害者の恒久的救済に関する対策案」(「恒久対策案」)の作成にとりかかった。組織内討議を重ねて、多くの支持者や協力者の援助も得て、ようやく被害者の立場からの「恒久対策案」を作り上げた(一九七二〈昭和四十七〉年八月)。「恒久対策案」は、被害者(親族)自らの手で作成したという点で、公害運動史上前例のない画期的なものであった。
「恒久対策案」は、①救済対象は全被害者である ②森永は加害企業として責任をまっとうすべきである ③国、地方自治体も責任がある ④被害者の実態を究明せよ ⑤将来にわたって、恒久的な救済を という原則を示した上で、健康管理や追跡調査、治療、健康手帳、家族に対する保障、保護育成とその施設、生活権の回復などについての具体的な要求を網羅していた。同時に守る会は、この「恒久対策案」を可決した第四回全国総会において、「原則的な面では一分の妥協もなく、具体的な面ではできるだけ実行しやすいように協力していく」と決定した。当初から基本原則と具体的要求についての方針を確認していたのである。
こうしてこの後、守る会は「すべての力を恒久対策案実現のために!」をスローガンに闘いを強めていくことになる。
ちょうどこのころに、十七~十八歳になっていた被害者たちは、「主体性、助け合い、文化性」を三原則として掲げ、被害者の会全国本部(別名「太陽の会」)を結成した(一九七二〈昭和四十七〉年八月)。
守る会は森永との交渉で、「恒久対策案」の実現を迫った。ところが森永は「十五億円の枠内で救済の進展を図る」と述べ、「恒久対策案」を受け入れようとしなかった。そればかりか守る会の交渉に責任ある役員が出席しないなど、不誠実な態度に終始した。ついに守る会は、森永製品の不売買運動を国民に呼びかけると同時に、民事訴訟を提起する決定をした(一九七二年十二月)。
・民事訴訟と不売買運動提起
これに先立ってすでに弁護士六十五名からなる「森永ミルク中毒被害者弁護団」(団長、中坊公平弁護士)が結成されていた。守る会の訴訟提起を受けて、弁護団はただちに活動に入った。守る会は弁護団とも協議を重ねて、この裁判は守る会全体の代表訴訟であり、個々の原告個人が賠償金を受け取るものではない、「恒久対策案」実現を目的とするものであることを明確にした。そして第一波を大阪地裁に(一九七三〈昭和四十八〉年四月)、第二波を岡山地裁に(同年8月)、第三波を高松地裁に(同年十一月)それぞれ提訴した。
また森永製品の不売買運動は、それ以前から支援団体の自主的な活動として取り組まれていたものであったが、守る会が要求実現に向けての有効な手段として決定し国民に訴えるなか、燎原(りょうげん)の火のごとく広がり日本の不売買運動史上最大の規模へと発展していった。
裁判の進行は、マスコミの報道もあって、世論からも大きな支持を得た。中坊公平団長、伊多波重義副団長はじめ中村康彦事務局長、辻公雄弁護士、大深忠延弁護士などすぐれた弁護士を擁する弁護団の活躍は、不売買運動にも相乗的に作用し、車の両輪となって運動が拡大し、全国的な情勢にも支えられて有利に展開していった。またちょうどそのころに森永刑事裁判の徳島地裁での差し戻し審の判決が出された(一九七三〈昭和四十八〉年十一月)。二人の被告のうち一人は無罪という不十分な結果ではあったが、企業の製造現場責任者の犯罪を認めたことは、守る会の運動に大きな励ましを与えるものであった。
6 三者会談確認書の成立
・森永乳業大野社長ついに因果関係を認める
訴訟が原告(被害者側)に有利な形で進行し、不売買運動も効果を見せ始めていた頃、厚生省の山口敏夫政務次官から「被害者の恒久救済を早期に実現するために、話し合いのテーブルにつかないか」との非公式の打診が守る会の二人の幹部(北村藤一副理事長、細川一眞常任理事)にもたらされた。守る会は、救済の早期実現のために話し合うことは必要であるという立場をもっていたが、その前提はまず森永が因果関係を認める立場に立つこと(森永は有毒ミルクを飲んだことと現在の被害との因果関係を認めていなかった)、そして国が事実上責任を認めて約束した未確認被害者(事件発生時にミルクを飲用したにもかかわらず何らかの理由で患者名簿に登載されていない者)の確認と被害者証明書の発行を誠意を持って速やかに実施することであった。
二人の幹部は真意を確かめるために私的な立場で山口次官と会い、ついで厚生大臣の意向をきいた。大臣は「できるだけのことはする」と述べ、未確認問題の早期処理と被害者証明書の発行を約束した。その会見のあと次官以下厚生省関係者の同席のもと、二人は森永乳業の大野社長らと会って、会社の意向を質した。その場でついに大野社長は、因果関係を認める立場に立つことを約束したのである。(一九七三〈昭和四十八〉年八月)
・守る会、国(厚生省)、森永による三者会談はじまる
こうして二人の幹部は一連の経過を常任理事会に報告し、以後守る会として交渉を進めることになった。九月に入り山口次官から大野社長に「守る会の『恒久対策案』を包括的に認める立場に立って、今後誠意をもって一刻も早く話し合いの場に臨むように」との書簡が送られた。会社側は「『恒久対策案』を包括的に認める立場にたって、誠意をつくさせていただくことを確約申し上げます」と回答した。これらの大きな状況変化をうけて、守る会は全国理事会を開催し、話し合いの場につくことを承認した。
守る会、厚生省(国)、森永乳業の三者が被害者の恒久救済体制確立にむけて、一九七三(昭和四十八)年十月に第一回三者会談が開かれた。その後も短期間に精力的に開催してお互いの誠意が確認された。そして同年十二月二十三日の第五回三者会談で全被害者を恒久的に救済するため「三者会談確認書」が作成され、厚生大臣、守る会理事長、森永乳業社長がそれぞれ署名捺印して締結された。確認書の全文は(資料1)にあげているのでそれを参照されたいが、内容は要旨つぎのようなものである。
三者会談確認書の要旨
① 森永乳業は、森永ミルク中毒事件について、企業の責任を全面的に認め謝罪するとともに、被害者救済の一切の義務を負担する。
② 森永乳業は、守る会の「恒久対策案」を尊重し、同案に基づいて設置される救済対策委員会(のちの「ひかり協会」理事会)の判断ならびに決定に従う。
③ 森永乳業は、救済対策委員会が必要とする費用の一切を負担する。
④ 厚生省は、「恒久対策案」の実現のために積極的に援助し、救済対策委員会が行政上の措置を依頼したときは、これに協力する。
⑤ 三者は、それぞれの立場と責任において、被害者救済のために協力することを確認し、問題が全面的に解決するまで三者会談を継続し、「恒久対策案」実現に努力することを確認する。このため三者会談の中に救済推進委員会を設置する。