50年記念誌  第1章

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第1章 1~6

 

1 事件の発生

 

一九五五(昭和三十)年六月ころから八月にかけて、近畿地方以西の西日本一帯で、ドライミルクを飲んでいる乳児に原因不明の病気が集団的に発生した。「人工栄養児に奇病!原子病に似た症状」「ドライミルクの恐怖、各地に死者続出」と新聞各紙は書きたてた。岡山大学附属病院の浜本英次教授(※注)は、乳児がいずれも森永ドライミルクを飲用していて、しかも乳児の症状がひ素中毒に類似しているため、法医学教室にひ素分析を依頼した。その結果、乳児が飲めば中毒を起こす量のひ素が検出された。八月二十三日のことである。

翌八月二十四日のラジオ、新聞はいっせいに森永乳業徳島工場製のMF印の缶に猛毒のひ素が混入しそれが奇病の原因であることを報道した。厚生省はすぐさまMF缶の回収を指示し、徳島工場の閉鎖を命じ、ひ素混入の経過の究明に乗り出した。

 

(※注)浜本教授は八月五日ごろにすでに患者が共通して同じ製品のドライミルクを飲んでいることに気づいていたことが手記で明らかになっているが、早期の公表に躊躇している。それは後日の記者会見で「森永乳業は乳幼児栄養に貢献が大きい。医学界にもいろいろ援助してもらっているし…」と語ったことからも、彼には企業への遠慮があったものと見られている。

 

・なぜミルクに猛毒のひ素が入ったのか

調査の結果つぎのような経過が明らかになった。

工場にたくさん集まってきた原乳のPH(ペーハー)が酸性になると乳蛋白が凝固し加工できなくなる。そこでPHを一定に保つ乳質安定剤として第二燐酸ソーダを使用していた。しかしこのときに使用した「第二燐酸ソーダ」が元をたどれば、日本軽金属清水工場でボーキサイトからアルミニウムを製造する過程でできた廃棄物を脱色再結晶させた物で、化学的には第二燐酸ソーダとはまったく異なる物質であった。実はその物質が、ひ素などの有害物質を大量に含んでいたのであった。

にもかかわらず、使用に当たって森永はその「第二燐酸ソーダ」の安全性を検査せずに安易に使用した。国もその流通過程で静岡県知事から毒物に当たるかどうかの照会があったにもかかわらず、適切な措置をとらなかったばかりか、事件発生後の一九五五(昭和三十)年十一月になって転売許可の通知を出したことが判明している。森永はもちろんのこと国(厚生省)の責任も重かったといえる。

 

ひ素ミルク中毒児の急性症状

人工栄養児をもつ親はわが子の健康を案じて病院や保健所に殺到し、外来診察室は患者と家族で火事場のような騒ぎであった。ひ素中毒の乳児は、発熱、睡眠不良、咳、流涙、嘔吐、下痢を発症し、やがて皮膚が黒ずむ、肝臓がはれるといった症状を見せた。また、吐乳や下痢のため栄養不足と脱水症状、貧血症状も引き起こしていた。これらの症状はひ素入りミルクの飲用を中止し、解毒剤であるバルを投与するなどの治療を開始すると急速に回復していった。

一九五六(昭和三十一)年六月九日の厚生省発表によると、被害者数は一万二千百三十一名(※注)、死者は百三十名であった。

この事件の被害者が乳幼児であったこと、また毒物が混入された物がその乳幼児の唯一の生命の糧であったこと、その結果、乳児から絶対的に信頼されている母親たちが自らの手で毒物を与えてしまったこと、そして食品公害としては極めて大規模なものであったということなどから、まさに人類史上例を見ない悲惨な事件であったといえる。中坊公平氏は「赤ちゃんは無条件に父や母を信じて生きていくのが人類の大きな特徴。これを裏切らせる行為を強いた、これが森永ひ素ミルク中毒事件の本質」と語っている。

 

(※注)ひかり協会が認定した被害者も合わせると二〇〇五(平成十七)年四月現在把握している被害者総数は一万三千四百二十二名である。

 

2 被害児の親たちの闘いとその限界

・被災者同盟(「全協」)の結成、

事件が発表されたわずか三日後の八月二十七日に岡山日赤病院で、岡崎哲夫氏が発起人となって「被災者家族中毒対策会議」が結成された。被害児の親たちは次々に組織をつくり、九月三日には岡山全県下の被害児の家族七百名が集まり総決起集会を開き、森永乳業との交渉を開始した。その後、他の府県でも府県単位の組織がつくられ、九月十八日にはこれらの代表が集まって「森永ミルク被災者同盟全国協議会(「全協」)を発足させた。全協は短期日のうちに二十八都府県に散在する被害者の約半数を組織したが、その後八ヶ月間にわたる闘いは悲壮なものとなった。

全協は、①治療費などの全額負担 ②後遺症に対する補償 ③死亡者二百五十万円などの慰謝料を森永に要求した。この全協の要求内容と世論を背景にした行動力に危機意識をもった森永側は厚生省に対して「解決」を依頼した。森永の要請を受けた厚生省は、「全協」側には何の相談もなく、有識者五名を構成メンバーとする「五人委員会」をつくり、「解決」を図ろうとした。このメンバーの中に森永と関係のある人物がいたり、委員会費用を日本乳製品協会という企業団体が負担したりしていたことからも、この委員会が公平中立でなく森永に味方するものと言われても仕方がない「第三者機関」であることがわかる。全協はこの委員会を認めなかった。

・「五人委員会」の意見書と「全協」の解散

はたして、十二月十五日に五人委員会が発表した意見書は、①死者に対する補償金は一人二十五万円(すでに十万円を出していたため十五万円の追加金を出す)②患者に対する保証金は一人一万円。(すでに入院患者には一万円出していたが更に上乗せして二千円の追加金を、通院患者には五千円を出していたため五千円の追加金を出す) ③後遺症の心配はほとんどない など、会社に都合のよいものであった。

加えて、親たちの真の願いである子どもの回復と後遺症に対する配慮の要求が世間に理解されないまま、慰謝料などの補償金問題だけがマスコミ報道されたり、森永の負担能力の限界という宣伝もあったりするなか、全協の闘いはゆきづまりを見せ始める。森永は五人委員会の意見書を盾に強硬な姿勢を崩さず全協の要求を聞こうとはしなかった。

やがて、生活をかかえた若い親たちに疲労の色が濃くなり、会社の裏面工作による組織へのゆさぶりも加わり、戦術の転換を余儀なくされるのである。「非常に屈辱的」と感じながらも妥結案をのんだ全協は、一九五六(昭和三十一)年四月二十三日ついに解散し、八か月にわたる闘いの幕を閉じた。

(妥結案)

①森永乳業は、厚生省の精密検診実施に努力する。将来医学上後遺症と認むべき事例が確認されたときには誠実にして妥当な補償を行なう

②全協はその結成の目的を達したものとして解散する

③森永乳業は全協が結成以来要した費用(六百五十万円)を解散後に支払う など

・被害者、完全に切捨てられる

しかし親たちの不安は消えなかった。いたいけな乳児がこれだけ激しい中毒症状を示し生死の境をさまよったにもかかわらず、外見的に回復したとはいえ、今後順調に生育できるのか、後遺症は残らないのかという心配が脳裏から消えなかった。それにもかかわらず、全入院患者に二千円、通院患者に五千円という追加金が現金書留で送られ、マンナ(ビスケット)二缶がわたされ、これだけの大惨事であった事件はすでに幕を引かれていた。それからは、被害児を連れて医者に行っても「森永ひ素ミルク中毒の子ども」と言っただけで、多くの医者が冷たい態度になるか迷惑そうな顔をした。

一年後に精密健診が実施されたが、これは前年に厚生省の肝いりで設けられた「西沢委員会」(小児科学会の権威、大阪大学の西沢義人教授が委員長)が答申した「治癒判断基準」に基づいて判定された。この「治癒判断基準」は、科学的かつ人道的であるべき小児科専門医学者の委員会が出したものであったが、周到さに欠け、結果として被害者側に立たない、加害者側に極めて都合のよいものであった。そのとき要治療と判定されたものは九十名とされ、やがて四年後にはなんと全員治癒と判定されるのである。この精密検査も大半が、「聴診器を二~三回胸に当て、口をあけてー」という程度のものであったという。当時の森永乳業と国(厚生省)と医学界が緊密に癒着して、被害児と親たちを完全に抹殺したのである。

世界でも例のないほど大規模に乳児にひ素を飲ませたという痛ましい事件の被害者が完全に切り捨てられたことは、日本の公害事件史のなかで特筆されるべきことである。

このような結果を招いた要因は、基本的には、今日では想像できないような当時の高度経済成長を目指した企業優先、人命軽視の国の政策であり、そのもとでの苛烈な被害者切捨て攻撃である。この攻撃に対する「全協」側の限界(弱さ)があったことも否めない。しかしそれは教訓化され、後日、丸山報告後の再結集時には「各地の組織の協議体ではなく全国単一指導部のもとで全国単一の方針を確立し、会員の力に依拠して闘う」「金銭賠償よりも、子どもらの恒久的な救済をという親の願いを基本にすえた運動」「厚生省は第三者の立場でなく、被害者側の立場に立つこと」といった方針が前面に出され、守る会運動は成熟した方向へ向かっていくのである。

 

 

3 岡山県「子供を守る会」、ともし続けた闘いの灯

 

・岡山県だけで残った親たちの運動

西日本各地で立ち上がった親たちが結成した被災者同盟(「全協」)は八か月の闘いで解散に追い込まれ、各地の被災者同盟も消滅していった。やがて世間からも忘れ去られていき、その間に子どもたちは小学校に入学し、中学生になった。救済の手は差し伸べられないまま、不運にも重症な子は亡くなり、障害の重い子は在宅で「就学猶予・免除」の扱いを受けた。一部は養護学校などに通い、虚弱な子は入退院を繰り返していた。

消えてしまったかのように見られていた親たちの運動だったが、岡山県では全協が解散した二か月後の一九五六(昭和三十一)年六月二十四日に「岡山県森永ミルク中毒の子供を守る会」(一九六二〈昭和三十七〉年には岡山県の文字を除き「森永ミルク中毒のこどもを守る会」)が結成されていた。被害児の今後の健康管理、救済措置の完遂、親同士の親睦を願っての集まりであった。会の主意書に「…子らが孤立して無援な情勢下に見捨てられることは、私達親として誠に忍びざる所である…子供達が普通の能力と健康とをもって社会生活を送ることが出来るように努力すると共に、私達が当初より抱き来たった社会正義の推進のため、広く社会有識者と提携してこの任務を発展させることを誓うものである」とある。ひたすら「子供を救い守る」という親の一念が運動継続の根底にあった。こめられた親の願いとともにこの組織が、今日まで続く守る会の母体となるのである。

 

・水島協同病院での集団検診

「子供を守る会」は森永や岡山県に対して被害児の継続的精密検診などをくりかえし要求し続けた。しかしマスコミの反応もなく、孤立無援の運動を続けるしかなかった。事件が発表された八月二十四日にもっとも近い日曜日に例年開催していた総会も、十周年の年をのぞけば毎年十名程度の参加者しかいなかった。しかし地道な活動が、やがて次の丸山報告の裏づけともなる実績を生むのである。「子どもを守る会」は一九六六(昭和四十一)年に岡山県に精密検診を要請した。この後検診が実施されるが、大半の被害児は「治癒」と判定される。親たちは子どもたちの実態からみてこの結果は納得できないとして、県下の理解ある医療機関に再度の検診を要請した。守る会の要請を受けた「岡山県薬害対策協議会」の遠迫(えんさこ)克己医師が検診の話を新日本医師協会に持ち込み、一九六七(昭和四十二)年に水島協同病院において三十五名の集団検診が行われた。その担当をしたのが第2章で登場する松岡健一医師である。その結果肝臓肥大、腎臓障害、発育・知能の遅れ、皮膚の疾患等多様な症状が発見された。そしてこの結果は、後日丸山報告を臨床的に裏付ける有力な根拠とされるのである。

 

 

4 「14年目の訪問」(丸山報告)と守る会の再結集

・救世主、丸山博教授の出現

事件発生後十四年の年月を経て、突然、被害者とその家族にとってまさに救世主とも呼ぶべき学者が現れるのである。

一九六九(昭和四十四)年十月三十日に岡山市で開かれた公衆衛生学会において、大阪大学医学部衛生学教室の丸山博教授らは「十四年前の森永MFひ素ミルク中毒患者はその後どうなっているか」と題して、被害児六十七名の追跡訪問調査の結果を発表した。

それに先立って、十月十八日丸山報告は「十四年目の訪問」と題する冊子にまとめられ学内の教材として提出された。これを受けて十月十九日の朝日新聞(大阪)が一面全部を使ったセンセーショナルな報道を行った。これに端を発し、各マスコミも大きく取り上げるところとなり、連日紙面やラジオをにぎわした。森永乳業にとっても行政当局にとってもまさに「晴天の霹靂(へきれき)」ともいうべき出来事であった。

・あきらかに被害者に後遺症がある

実は、この「十四年目の訪問」と呼ばれている大阪府下を中心とする地域に住む被害者の実態調査は、たまたま丸山教授に教えを請いにきた大阪府堺養護学校の養護教諭、大塚睦子氏の学校に被害者が在籍していたことに端を発している。丸山教授の指導のもと、大塚氏はじめ保健婦、医学生、医学者らで「森永ひ素ミルク中毒事後調査の会」をつくり、事件当時の古い名簿を頼りに一軒一軒被害者の家を訪問し、親から直接に中毒時の状況、成長過程や現状を聞き取っていった。その調査の結果、六十七名中なんと五十名になんらかの異常が認められたのである。これは、被害者に後遺症が存在することを疑わせるのに十分であった。これをもとに丸山報告がされたのである。

きっかけは偶然であったともいえるが、戦前から乳幼児の死亡問題を研究テーマとしていた丸山教授の問題意識のなかにあり続けた事件に対する強い関心と、高い倫理観に裏打ちされた衛生学者としての実績と慧眼(けいがん)がなければ、このような展開は望むべくもなかった。被害者とその家族たちの中で、丸山教授を救世主と呼ぶことに異論をはさむ者は誰一人いないであろう。

 

・被害者の親たち、再び結集する

いよいよ事件は社会問題として再燃した。結成いらい孤立無援であった岡山県「子どもを守る会」を核にして、全国の被害者の親たちは再び結集し被害者救済に向けての大きな闘争が開始されるのである。丸山報告の一か後の十一月三十日に、十三都府県から百五十人の親たちが岡山に集まり、多数の支援者やマスコミが見守るなかで「森永ミルク中毒のこどもを守る会」(以下「守る会」)第一回全国総会が開催された。総会の最後に岩月祝一理事長は「私達は今日まで金をもらうために運動したのではない。過去十四年間の伝統と実績の上に立って、あくまで被害者運動の純粋性と人道性を守っていくことを誓う。万一これでお気に召さない方がおられるならば、即刻退場願って結構です」とあいさつし、北村藤一顧問も「この守る会を自らの瞳のように愛し守ろう」と全国単一組織を呼びかけた。これは現在も変わらず、規約前文で「守る会は、過去の歴史に学び、組織を尊重し、かつ全国単一組織制度を堅持する」と明記している。

こうして守る会は全国組織として再構築され、各地で都府県の支部が結成されていった。支援団体もつぎつぎに生まれ、保健・医療関係者、法律家、教育関係者、各種団体と個人等が「対策会議」を各地で結成し、守る会と協力した闘いを日本中に発展させていくのである。

 

5 恒久対策案の実現めざし、訴訟と不売買運動

・森永乳業、責任逃れと高姿勢な態度

守る会は再結集後の第一回全国総会で、しばらくの間、組織の整備と後遺症の究明に力を注ぐため、向こう一年間は森永乳業と交渉しないという方針を出した。守る会は不用意に森永と接触することを意識的に避けていた。事件発生当時の苦い経験からくみとった教訓からくるものであった。やがて被害児の実態が究明されるにつれて一日も早い救済が必要な被害児が多数いることが明らかになった。また、後遺症の存在が科学的に証明されつつあった。そこでいよいよ守る会は森永と交渉を開始するのである。交渉は本部交渉と現地交渉と並行して行い、全会員の全国的な結集を図った。

しかし、森永は事件発生当時と同じように被害者の諸症状はひ素ミルク中毒によるものであるという因果関係を認めようとせず、「森永乳業は悪徳業者にだまされた」などと責任のがれと高姿勢な態度に終始した。一方、厚生省は守る会の事実と道理に立った要請に過去の誤りを認め、行政の責任についても認め、さらには森永の責任についてもはっきりしているという見解を示し、森永とは対照的な態度をとり始めていた。森永側は十四年間の社会情勢の変化による世論の厳しさ、支援の輪の広がりと守る会運動の担い手たちの成熟を甘く見ていた。

守る会の追及のなか、森永は「恒久措置案」を提示することを約束し、一九七一年十二月に「森永恒久措置案」を守る会に示した。その中身は「因果関係を問わず、道義的責任を全うするため」としており、「困っているなら何とかするから、因果関係とか、企業責任とかは言うな」という高姿勢なものと守る会は受け止めた。

 

・「恒久対策案」の作成とその実現に向けて

守る会は、このような「森永恒久措置案」を全面的に拒否し、全国の会員の要求を結集し「森永ミルク中毒被害者の恒久的救済に関する対策案」(「恒久対策案」)の作成にとりかかった。組織内討議を重ねて、多くの支持者や協力者の援助も得て、ようやく被害者の立場からの「恒久対策案」を作り上げた(一九七二〈昭和四十七〉年八月)。「恒久対策案」は、被害者(親族)自らの手で作成したという点で、公害運動史上前例のない画期的なものであった。

「恒久対策案」は、①救済対象は全被害者である ②森永は加害企業として責任をまっとうすべきである ③国、地方自治体も責任がある ④被害者の実態を究明せよ ⑤将来にわたって、恒久的な救済を という原則を示した上で、健康管理や追跡調査、治療、健康手帳、家族に対する保障、保護育成とその施設、生活権の回復などについての具体的な要求を網羅していた。同時に守る会は、この「恒久対策案」を可決した第四回全国総会において、「原則的な面では一分の妥協もなく、具体的な面ではできるだけ実行しやすいように協力していく」と決定した。当初から基本原則と具体的要求についての方針を確認していたのである。

こうしてこの後、守る会は「すべての力を恒久対策案実現のために!」をスローガンに闘いを強めていくことになる。

ちょうどこのころに、十七~十八歳になっていた被害者たちは、「主体性、助け合い、文化性」を三原則として掲げ、被害者の会全国本部(別名「太陽の会」)を結成した(一九七二〈昭和四十七〉年八月)。

守る会は森永との交渉で、「恒久対策案」の実現を迫った。ところが森永は「十五億円の枠内で救済の進展を図る」と述べ、「恒久対策案」を受け入れようとしなかった。そればかりか守る会の交渉に責任ある役員が出席しないなど、不誠実な態度に終始した。ついに守る会は、森永製品の不売買運動を国民に呼びかけると同時に、民事訴訟を提起する決定をした(一九七二年十二月)。

・民事訴訟と不売買運動提起

これに先立ってすでに弁護士六十五名からなる「森永ミルク中毒被害者弁護団」(団長、中坊公平弁護士)が結成されていた。守る会の訴訟提起を受けて、弁護団はただちに活動に入った。守る会は弁護団とも協議を重ねて、この裁判は守る会全体の代表訴訟であり、個々の原告個人が賠償金を受け取るものではない、「恒久対策案」実現を目的とするものであることを明確にした。そして第一波を大阪地裁に(一九七三〈昭和四十八〉年四月)、第二波を岡山地裁に(同年8月)、第三波を高松地裁に(同年十一月)それぞれ提訴した。

また森永製品の不売買運動は、それ以前から支援団体の自主的な活動として取り組まれていたものであったが、守る会が要求実現に向けての有効な手段として決定し国民に訴えるなか、燎原(りょうげん)の火のごとく広がり日本の不売買運動史上最大の規模へと発展していった。

裁判の進行は、マスコミの報道もあって、世論からも大きな支持を得た。中坊公平団長、伊多波重義副団長はじめ中村康彦事務局長、辻公雄弁護士、大深忠延弁護士などすぐれた弁護士を擁する弁護団の活躍は、不売買運動にも相乗的に作用し、車の両輪となって運動が拡大し、全国的な情勢にも支えられて有利に展開していった。またちょうどそのころに森永刑事裁判の徳島地裁での差し戻し審の判決が出された(一九七三〈昭和四十八〉年十一月)。二人の被告のうち一人は無罪という不十分な結果ではあったが、企業の製造現場責任者の犯罪を認めたことは、守る会の運動に大きな励ましを与えるものであった。

 

 

6 三者会談確認書の成立

・森永乳業大野社長ついに因果関係を認める

訴訟が原告(被害者側)に有利な形で進行し、不売買運動も効果を見せ始めていた頃、厚生省の山口敏夫政務次官から「被害者の恒久救済を早期に実現するために、話し合いのテーブルにつかないか」との非公式の打診が守る会の二人の幹部(北村藤一副理事長、細川一眞常任理事)にもたらされた。守る会は、救済の早期実現のために話し合うことは必要であるという立場をもっていたが、その前提はまず森永が因果関係を認める立場に立つこと(森永は有毒ミルクを飲んだことと現在の被害との因果関係を認めていなかった)、そして国が事実上責任を認めて約束した未確認被害者(事件発生時にミルクを飲用したにもかかわらず何らかの理由で患者名簿に登載されていない者)の確認と被害者証明書の発行を誠意を持って速やかに実施することであった。

二人の幹部は真意を確かめるために私的な立場で山口次官と会い、ついで厚生大臣の意向をきいた。大臣は「できるだけのことはする」と述べ、未確認問題の早期処理と被害者証明書の発行を約束した。その会見のあと次官以下厚生省関係者の同席のもと、二人は森永乳業の大野社長らと会って、会社の意向を質した。その場でついに大野社長は、因果関係を認める立場に立つことを約束したのである。(一九七三〈昭和四十八〉年八月)

 

・守る会、国(厚生省)、森永による三者会談はじまる

こうして二人の幹部は一連の経過を常任理事会に報告し、以後守る会として交渉を進めることになった。九月に入り山口次官から大野社長に「守る会の『恒久対策案』を包括的に認める立場に立って、今後誠意をもって一刻も早く話し合いの場に臨むように」との書簡が送られた。会社側は「『恒久対策案』を包括的に認める立場にたって、誠意をつくさせていただくことを確約申し上げます」と回答した。これらの大きな状況変化をうけて、守る会は全国理事会を開催し、話し合いの場につくことを承認した。

守る会、厚生省(国)、森永乳業の三者が被害者の恒久救済体制確立にむけて、一九七三(昭和四十八)年十月に第一回三者会談が開かれた。その後も短期間に精力的に開催してお互いの誠意が確認された。そして同年十二月二十三日の第五回三者会談で全被害者を恒久的に救済するため「三者会談確認書」が作成され、厚生大臣、守る会理事長、森永乳業社長がそれぞれ署名捺印して締結された。確認書の全文は(資料1)にあげているのでそれを参照されたいが、内容は要旨つぎのようなものである。

三者会談確認書の要旨

① 森永乳業は、森永ミルク中毒事件について、企業の責任を全面的に認め謝罪するとともに、被害者救済の一切の義務を負担する。

② 森永乳業は、守る会の「恒久対策案」を尊重し、同案に基づいて設置される救済対策委員会(のちの「ひかり協会」理事会)の判断ならびに決定に従う。

③ 森永乳業は、救済対策委員会が必要とする費用の一切を負担する。

④ 厚生省は、「恒久対策案」の実現のために積極的に援助し、救済対策委員会が行政上の措置を依頼したときは、これに協力する。

⑤ 三者は、それぞれの立場と責任において、被害者救済のために協力することを確認し、問題が全面的に解決するまで三者会談を継続し、「恒久対策案」実現に努力することを確認する。このため三者会談の中に救済推進委員会を設置する。

 

 

 

第1章 7~9

 

 

7 ひかり協会の設立

 

・ひかり協会が設立され、被害者救済が始まる

確認書締結後、「恒久対策案」に基づく「森永ミルク中毒被害者救済対策委員会」(中央救済対策委員会)を結成し公益法人として設立させることで合意し、三者はその法人に対し、それぞれの立場から援助、協力を行うこととした。そして、その公益法人は財団法人とするという選択をして、名称も「ひかり協会」として発足させた(一九七四〈昭和四十九〉年四月17日)。ここに事件発生以来十九年間放置されてきた被害者に対する救済事業が開始されるのである。なお、ひかり協会の理事構成は5名の守る会役員(※注)と協力専門家を衷心とする15名の学識経験者の計二十名でスタートし、事務所は大阪市に置かれ常勤理事、事務局職員も漸次配置していった。(資料2「設立趣意書」参照)

一方、中央対策委員会結成前から現地救済対策委員会が結成されていた。これは、地域に在住する被害者の救済にはきめ細やかな現地での活動が不可欠であるという考えからきている。守る会各都府県本部は協力専門家に要請し、多彩なメンバーを擁する現地救済対策委員会が次々と誕生し、現地事務所も開設された。その後ひかり協会の事業がすすむにつれ、守る会から委嘱されていた現地救済対策委員は協会理事長の委嘱によるものとなった。こうして現地救済対策委員会は地域救済委員会となり、ひかり協会組織のなかに位置づけられ、被害者救済事業は全国で統一的に行われるようになった。

 

(※注)当初守る会は、協力専門家のみによる構成を考えていた。それはできるだけ客観的に被害者のニードを把握して公平な救済を実施するためと、金銭を扱うことになる救済機関に守る会役員が入ることによって、無用の混乱を招きかねないという事件発生当時の「全協」の経験からの配慮であった。しかしその後の協力専門家との懇談のなかで、専門家から「守る会が入って積極的に運営の中心になる理事会でなければ協力が困難である」との意見が出された。そこで守る会からも5人の役員が加わることになった。

 

・訴訟の取り下げと不売買運動の中止

このようなひかり協会設立という事件史上最大の転換があったにもかかわらず、民事訴訟の法廷において森永は相変わらず「因果関係不明論」など従来の主張を変えず、責任を認めようとしていなかった。この点について、原告側弁護団は国および森永に対して釈明をもとめたところ、法廷において要旨次のように釈明をし、三者会談の確認事項やひかり協会設立についての基本的態度に相違ないことを表明するに至った(一九七四〈昭和四十九〉年五月十五日第十五回口頭弁論)。

(森永の釈明)

① 確認書の記載のとおり企業責任を全面的に認め、心から陳謝する。また、救済の遅れたことについても陳謝する。

② 森永乳業は、「恒久対策案」に基づきひかり協会の判断、決定に従い、これに要する費用は、一切負担する。枠が設定されたということはない

③ 原告の未確認者、及び死亡者についても救済の対象である

(国の釈明)

① 十九年間救済が遅れたことについて、行政の立場から申し訳がないと考えている

② 今後未確認被害者の確認作業を進める

③ ひかり協会の救済事業には関係各省庁、地方公共団体を通じて全面的に協力する

④ 救済の対象については森永と同様に認める

守る会は、この釈明を受けて、全国理事会で「訴えの取り下げ」による訴訟の終結、不売買運動の中止を決定した(一九七四〈昭和四十九〉年五月)。弁護団は裁判を有利に展開させて、なんとしても判決という形で因果関係や森永と国の責任を明確にさせたかったであろうが、内部で激論のすえ、最終的にこの守る会の決定を尊重した。原告団は各地方裁判所において「取下書」を提出し、訴訟は終結した。

一方、不売買運動については中止するという守る会の態度を表明したが、対外的には各団体の判断にまかせるという内容にとどまったため、その顛末(てんまつ)を明確にする時期を逸してしまった。

ともあれ、恒久救済実現のために提起した訴訟であり不売買運動であるという位置づけからして、被害者救済機関の発足という情勢の変化を受けてこのような方針を採ったということは守る会運動の原点に立った当然の態度であった。

ただ、「森永をぶっつぶすまでの永久の不買」などを叫び続ける「森永告発」グループのように、一部ではこの方針に反対する「支援者」もいた。彼らと彼らに同調する者はひかり協会設立後も、守る会方針を非難し続けた。被害者の会総会や一部協会事務所に押しかけ暴力的な妨害をするに至り、守る会は「森永告発」は支援者ではない、破壊者である、との態度表明をした。(資料3)しかし再結集以降一貫して「金をとるのが目的ではない。子ども達の恒久救済実現を」という言葉を掲げて運動してきた守る会にとっては何ら迷うことのない選択だったのである。

以上の経過が示すとおり、三者会談確認書の成立とひかり協会の設立は、守る会運動にとってもわが国の公害問題の解決にとっても、画期的な出来事であったといえるが、それは事件の結末ではなく、守る会運動と被害者救済にとって新しい出発であった。ひかり協会発足にあたって守る会が次のような声明を出したことからもそのことがうかがえる。

(守る会声明書)

「…守る会の会員、被害者およびその家族の方々は、傍観して法人の活動を待っていて与えられるもののないことを理解され、守る会を中心とする諸活動に積極的に参加することをつうじて、ひかり協会を真に光り輝くものとならせるよう格段のご努力をお願いする次第であります」

 

 

8 救済事業の開始と守る会運動

・希望に燃えながらも、暗中模索の事業開始

一九七四(昭和四十九)年の九月までにひかり協会の本部事務所と十七カ所の現地事務所(※注)が開設された。法人事務所たる本部事務所は交通の便と行政協力の便宜を考慮して大阪市内に設置された。現地事務所は原則として守る会都府県本部のあるところに設置し、所長は都府県委員長等が担当することになった。こうして「恒久対策案」による事業の具体化を急ぎ、暫定措置としての事業を開始した。守る会にとっては希望に満ちた活動であった。

しかし、ひかり協会による事業の開始は、すべてが順調に滑り出したというわけではなかった。国(厚生省)と守る会と森永乳業という三者が協力し合い、事業の進め方は守る会の意見を尊重しつつ専門家にゆだねるというものであった。すべてが前例のない、まさに世界で初めての前人未踏の被害者救済事業に踏み出したわけであり、最初のうちは試行錯誤のくりかえしであった。そのため守る会会員のなかには自分が思い描いていたような事業内容でないと不満を持つ者もいたし、損害賠償的な事業を求める者も一部には現れた。

もともと守る会の考え方は慰謝料要求はせず恒久救済を目的とするとしてきたが、協会設立があまりにも急な展開で行なわれたため、新局面に対する統一的な方針を全会員に徹底しきれていなかったという状態があったのである。当時の全国総会(一九七四〈昭和四十九〉年八月)の運動方針でも「恒久対策案実現の今後の展望について明確な見通しを有する人はなく、極めて困難な道程である。しかし、守る会の団結と活動が困難を克服する」と結んでいる。

 

(※注)開設された現地事務所は、岡山、和歌山、大阪、奈良、京都、香川、徳島、広島、東京、高知、愛媛、滋賀、兵庫、島根、九州、山口、福井である。また九州事務所には長崎・熊本・鹿児島の三連絡所が後に設置された。

 

・初年度事業を終えた時点で集中討議、守る会の「松山合宿」

こうして第一期の事業は苦悩と模索のなかで問題を抱えつつ経過した。守る会はこの段階で初年度の事業を総括し教訓を引き出すことは、今後の長期にわたる救済事業の基本をすえるうえで重要な意義を持っていると考え、松山市において合宿して集中した論議をおこなった。(一九七五〈昭和五十〉年五月三~四日)この論議はその後「松山合宿」と呼ばれ、救済事業の基本方向を決定したものとして、今日にいたるまで守る会内部では極めて重要な位置づけがされている。

松山合宿では白熱した討議の結果、つぎのような統一見解が出された。(全文は資料4)

(1)救済の基本理念の確認

①協会事業には賠償金支払いは含まれない

②救済とは、被害者を通常の社会人として自立させるため、一人ひとりの被害者が必要とする様々な権利の回復と、発達を保障するものである。したがって金銭の支払いがすべてではない

③「一律、平等、無差別に何らかのプラスアルファーを」という主張は真の救済にならない

(2)守る会と協会の相互の位置づけについて

①守る会と協会は別組織であるから、混同することは厳につつしむ。しかし被害者救済の目的においては完全に一致するものである。

②ひかり協会の事業を被害者救済のために真に機能させ、発展させ、充実させるには、守る会の統一と団結が欠かせない。

松山合宿統一見解を確認したことにより、その後の救済事業にたいする守る会の基本的なスタンスが確定したと考えられる。しかしながら、これらの見解は守る会の組織的な実情を反映して、すぐに全会員に徹底されたわけではなく、その後も繰り返し討議されながら定着していくのである。「救済とは何か」「守る会と協会の関係はいかにあるべきか」をテーマにして討議が繰り返されるのは、前例のない解決方法、すなわちすべての被害や損害を金銭で解決するという現行法制度によらない救済方法をとったことからきているものと考えられる。

 

 

9 救済の原則の確立と「被害者救済事業のあり方」の検討

・協会理事会の「熱海合宿」

守る会の松山合宿の一週間後に、熱海市で開催されたひかり協会理事会では事業開始初年度の反省と評価を討議したが、松山合宿の中身も反映して突っ込んだ検討が行われた(熱海合宿と呼ばれる。一九七五〈昭和五十〉年五月十一~十二日)。

熱海合宿では、まず初年度の事業は金銭給付が先行したという反省の上に立って、真の救済とは何かについて論議をした。その論議を踏まえて、理事会は理論問題研究会(のちに救済理論作業委員会)を発足させ、各現地事務所を訪問し、救済の実例を目で確かめ、成果と教訓を整理した。委員会では次のような点が指摘された。

①被害者の実態把握にたった事業の適用が重要であること。とくに被害の科学的認識にたって金銭給付だけでなく自立を促進するための援助策を中心にすべきである

②救済の効果をあげるうえで親・家族の理解のうえにたった対策が決定的な作用をもっている。このため今後の事業の展開にあたっては協会、守る会と本人や親族が一体となった推進体制をとる必要がある。

③守る会運動の中で掲げてきた「一人はみんなのために、みんなは一人のために」という運動のモラルは、救済事業のなかでも極めて重要である。

これらの指摘は、その後の活動のなかで生かされ、事業の発展に貢献した。

具体的には、障害、症状の重い「調整手当A.B.C」受給者には該当しないが健康ではない、いわゆる森永ミルク中毒症候群といわれる「Dグループ」に対する救済実施がされるなかで、被害者に対する相談活動が日常業務として行われるようになった。また金銭給付では救済しきれない事業の分野として教育事業の取組みが広がり始めた。岡山ではその取組みのなかで、自然の場を確保して訓練のできる「太陽の村構想」が作られ、全森永労組などのカンパなども受けて建設が始まった(一九七六〈昭和五十一〉年)。(しかしこの構想はさまざまな事情から最終的には成功しなかった)

また熱海合宿では救済事業を進めていくうえでの守る会の協力の重要性について討議がされた。守る会の黒川克己副理事長は、この時にひかり協会の常勤常務理事となった(一九七五〈昭和五十〉年)。その後、一九七六(昭和五十一)年には北村藤一副理事長がひかり協会の常勤専務理事に、一九七七(昭和五十二)年には大槻高常任理事がひかり協会の常勤常任理事兼事務局長に就任し、守る会役員みずからが重責を担うのである。この姿勢は被害者にも引き継がれ、現在も二名の守る会幹部がひかり協会の常勤理事を務めている。一九七七(昭和五十二)年度から協会の補助員、窓口の設置が行われ、守る会の都府県の役員が中心となって積極的に組織的参加をした。この補助員、窓口制度は後で述べるとおり、一九八五(昭和六十)年以降「協力員制度」と改め、被害者自身が直接被害者の救済事業にたずさわるという、これもまた公害被害者救済に例のない取組みへと発展するのである。

 

・「救済事業のあり方」(「20歳代のありかた」)検討のなかで確立した救済の三原則

松山合宿、熱海合宿を通じそれぞれ救済の基本方向で一致してきた守る会、ひかり協会は、一九七八(昭和五十三)年三月に連名で「調整手当の見直しについての提案―救済事業のあり方の検討」を討議資料として提案した。当初調整手当の見直しの要望に応えるために始まったのであるが、討議するなかでそれにとどまらず他の事業にも検討が及んでいった。以後この提案を土台にそれぞれで検討し守る会は「救済事業のあり方に関する提案」を八月の全国総会で決定した。協会は、五月以降専門委員会や地域救済対策委員会から多くの意見が出された。協会理事会はこれらの意見と守る会の「提案」を受け、同年九月に「救済事業のあり方」(以下「あり方」)を決定した。

この「あり方」の中で「救済の三原則」が確立された。すなわち、

①青年期にある被害者にとって、いま最も大事なことは、社会的自立、発達を保障することである

②救済には、金銭によるものと金銭では解決できないものがあり、これを総合的に実施  する。

③障害(症状)は一人ひとりちがっている。したがって、救済も画一的な方法でなく、個々の被害者の実情にあった対応をしなければならない

という三つの定義である。

この原則に基づいた「あり方」決定後、協会はただちに具体化の作業に入り、専門委員会の調査審議をもとめ、理事会で「金銭給付の判断基準」を作成した。こうして新しい金銭支給はより科学的で公正な基準にもとづいておこなわれるようになった。

このようにして、協会設立以前に作成された「恒久対策案」に盛り込まれた「子どもを救い守る」という親の願いは、協会事業の基盤にすえられ、協会事業を進める中で磨かれ具体化され、発展していくのである。しかし一部に「恒久対策案」に書かれたすべての条項を協会で事業化しろと言う、いわゆる「恒久対策案の完全実施」を唱える者もいたので、守る会は「恒久対策案の位置づけ」を作成し、全国的に討議した。ここに、「恒久対策案」で大事なのはその一言一句にこだわることではなく、案に盛られた親の願いは原則的なものであるという立場に立って、被害者の実態に即した事業を創造的に発展させることこそが、真に親の願いに応える道であることを明らかにしたのである。「完全実施」を求める主張はみずから救済事業のひろがりを狭める役割しか果たさないものであるとした。

「二十歳代のあり方」にもとづく救済事業は一九七九年度から実施された。ひかり協会が設立されて五年後のことである。

「あり方」を制度化する上で、協力専門家が果たした役割には大変大きなものがあった。それまでは現地交渉で勝ち取ったものがそのまま事業として行なわれていたため、基準があいまいで公平性に欠けていた面があった。それを討議して専門的な見地から整理し、「給付基準の作成」「救済審査で全国的に公平性を確立」「現地救済対策委員会による個別対応」などを作り上げていった。これは救済事業が始まる以前から多くの専門家集団に支えられてきた特質を生かした成果であるといえる。

第1章  10~12

⒑ 「あり方」の発展と受け皿組織づくり

・協会設立十年と「三十歳代のあり方」検討

協会設立により被害者救済がはじまって十年。全被害者一万三千余名中に占める「協会と常時連絡を希望する者(アンケート①と呼ぶ)」(※注)は、三千人余から六千人余へと増加し、各種事業を受ける被害者も大きく広がった(実人数五千百八十七人)。ひかり協会の存在とその事業は被害者のなかで確実に定着してきたといえる。

しかしこの間に、多くの被害者は三十歳代に近づき、親の高齢化がすすむ中で、障害のある被害者の親亡き後の対策を含めて中長期の展望をもった事業についての検討を求める要望が強まってきた。こうして「三十歳代をむかえての被害者救済事業のあり方」(以下「三十歳代のあり方」)の検討が開始された。検討にあたっては、「あり方検討委員会」を設け、専門家による調査、審議をもとめた。並行して守る会、太陽の会(被害者の会)及び協会の三者による討議を先行させ、三者で「基本的確認事項」を作成し検討に入った。

検討は当初の予定を一年延長し、一九八三(昭和五十八)年四月から八五(昭和六十)年十一月までという二年半の年月をかけた。この討議は三十歳代を迎えようとする被害者の実態や協会事業十年の実践をもとに、被害者、親族、その他関係者の意見を広く集めたものであった。また、事務所ごとに守る会、被害者、協会、専門家が「三十歳代のあり方」論議を積み重ねたことは、その後の救済事業の発展をささえる大きな力となっていくのである。この討議の中で「三者会談方式」を定式化したといえる。

 

(※注)協会発足時に全保護者対象にアンケートをとり、協会との連絡方法の要望を6グループに分類した。固定されたものではなくそれぞれの人数は変動する。ちなみに六グループとそれぞれに属する被害者の割合はつぎのとおりである。(二〇〇五〈平成十七〉年三月現在)

① 協会と常時連絡を希望する者・・・・・・44%

② 申し出があった場合のみ連絡をとる者・・22%

③ 一切の連絡を拒否する者・・・・・・・・12%

④ 住所不明者・・・・・・・・・・・・・・15%

⑤ 無回答者・・・・・・・・・・・・・・・ 0%

⑥ 死亡者・・・・・・・・・・・・・・・・ 7%

 

・国民的合意(社会からの支持)が得られる適正な水準を

「三十歳代のあり方」の「基本的確認事項」は引き続き救済の三原則のうえに立って、救済の必要性とともに国民的合意(社会からの支持)が得られる適正な水準を求め、次のような基本を示していた。

①相談事業は事業の出発点であり事業実施の土台の役割を果たす

②健康の保障はすべての被害者にかかわる最重要課題である。そのため自主的な健康管理を重視し、医療費は従来どおり自己負担分を給付する

③障害が重度であるため自立が困難な者には生活保障のための対策をとる。生活保障としての手当は公的な給付と合わせて国民的な合意を得られるものとする。(公的年金と合わせて月十一万円でスタートし、障害基礎年金にスライドさせている)重度でないが一定以上の障害があるものは生活援助をする

④施設問題についてはニードを調査し研究する

⑤協会の運営、体制を一部改革する(評議員制度などを導入した)

こうして一九八六(昭和六十一)年度から「三十歳代のあり方」にもとづく救済事業が実施された。

 

・受け皿組織づくりと組織問題

この間の救済事業の発展に対応する守る会の組織課題として一九八一年(昭和五十六)に規約改正(五たび改正の趣旨)が提起され、この討議の中でクローズアップされたのが受け皿組織であった。すなわち、運動をつくりあげてきた親族が高齢化した後、いったいだれを運動の担い手とするのかという問題である。議論の過程では、親が中心の守る会を解散し協力専門家などを含めた組織にするとか、協会職員や専門家を協力会員とするといった案も出された。しかし一九八三(昭和五十八)年の第十五回全国総会で守る会の名称を「森永ミルク中毒のこどもを守る会」から「森永ひ素ミルク中毒の被害者を守る会」とし、会員資格をこれまでの「親」から「親族及び被害者」とした。つまり、親がつくってきた組織を受け継ぐのは被害者本人であると決定したのである。また加入の対象は全被害者であるとし、健常者が仲間としての連帯性を発揮して重症者と共に活動することとした。こうしてその後、運動の純粋性と人道主義を掲げた守る会の精神は被害者本人へと引き継がれていくのである。

それにともなって、被害者の会である「太陽の会」はその任務を終え、「発展的解消」(一九八八年十月)をして会員はつぎつぎと守る会へ加入していくのである。

しかしこの過程において、守る会内部で分派活動が発生したり、役員選挙の立候補制試行的実施時に不団結が生じたりしたという苦い経験をした。最終的に確認書調印後の守る会運動を総括し、守る会運動の原則を六項目に整理して規約前文に掲げることによって、分裂の危機を回避し全国単一組織としての団結を守った。

 

・より長期を見通した救済の方針「四十歳以降のあり方」

このようにして組織的には、親族と被害者が重なり合って活動を進めていくのであるが、当然徐々に、親族の数は減り被害者の数は増えていくことになる。こういったなかで、被害者が四十歳を目前に控え、つぎの年代にあった救済事業のあり方検討の必要性が言われ始めるのである。

この四十歳を迎えるにあたっての「あり方」は、救済事業のゆるぎない恒久的発展のために、これまでの「二十歳代のあり方」「三十歳代のあり方」よりも長期を見通した方針となるように守る会が要請し、それを受けて「四十歳以降のあり方」として一九九三(平成五)年七月から九四年十月にかけて検討された。

このころすでに現地(各都府県)では被害者役員が中心になって活動しており、被害者自身が救済事業のあり方検討に参画することが欠かせない条件となっていた。協会現地事務所と守る会役員の懇談の場である現地二者懇談会でも、一般の被害者や親族を対象とした現地交流会でも積極的な検討がくりひろげられ、「三十歳代のあり方」検討時を大幅に上回る人数が参加することになる。

「四十歳以降のあり方」は、それまでの二十年以上に及ぶひかり協会による救済事業を全面的に総括したうえで、今後の課題を次のように整理した。

①二十年間の総括にたって救済事業の成果・効果をみきわめ、事業は機械的な延長や総  花的にしない。

②今後の事業の重点は、一つには四十歳以降の被害者の健康と生活の課題にたいして適切に援助する事業をおこない、被害者の自主的、主体的なとりくみや連帯を生かした事業として展開する。二つには「親なきあと対策」として将来設計の援助事業を推進することである。

③公的制度の活用および三者会談確認書にもとづく行政協力は、保健、医療、福祉、労働等の制度の大幅な変革がすすむなかで、恒久的な救済事業の発展を保障する基本として位置づける。

④守る会が親から子へと組織的に移行する時期にあって、協会事業を支える守る会の役割が継続発展されるよう事業をすすめる。

⑤「恒久対策案」の精神にもとづく恒久的な救済事業の発展のため、「三者会談」を構成する四者の信頼と協力関係を強化する。

ここには、被害者を救済する事業が中途で破綻することなくずっと続くようにという親族の祈るような思いと、その親族の思いをしっかりと受け継ごうという被害者本人たちの主体的な姿勢がありありと表されている。

決して無尽蔵にあるわけではない森永からの救済資金を、社会的な支持を失わないように公正に有効に使わなければならない。であるから、効果的に使うために、重点事業を定めたり公的制度や行政協力を積極的に利用する。さらに、この事業を支えていけるような守る会を被害者自身が担わなければならないし、守る会・厚生省(現、厚労省)、森永乳業、ひかり協会の四者の協力を絶対に崩してはならない。こういう思いがこめられた「四十歳以降のあり方」は一九九五(平成七)年度から実施された。

 

・四十周年祈念式典・合同慰霊祭

その一九九五(平成七)年の秋、「四十歳以降のあり方」でも今後の重要な課題であると強調された四者の協力関係の強化につながる大きな取組みが行われた。和歌山県高野山での「四十周年祈念式典・合同慰霊祭」である。これは守る会と森永乳業が毎年秋に、高野山に建立されている慈母観音像(※注)へのお参り(合同慰霊祭)から発展的に創造されたものであるが、守る会と森永乳業が主催し、厚生省とひかり協会が後援し七十名を超える規模で行われた。それぞれの団体の代表が参加し、四者の主だったメンバーが一堂に会する取組みとしてはかつてなく大規模なものであった。

前半の「祈念式典」は、高野町公民館で行われた。会場には、守る会は古賀重晴理事長はじめ全国本部役員である常任理事、森永乳業は大野晃社長はじめ渉外部幹部と渉外部員(会社はこの事件の担当する部署として渉外部をおいている)、厚生省は堺宣道食品保健課長はじめ担当者、ひかり協会は中川米造理事長はじめ常任理事と管理職という主だった役職のメンバーがそろった。それぞれの代表があいさつし、最後に守る会の前野直道副理事長が誓いの言葉を読み上げた。マスコミにも大きく取り上げられ、関係者はもちろんのこと広範な人々からも注目された。(役職はすべて当時)

後半の「合同慰霊祭」は、亡くなった被害者の過去帳を納め慈母観音像を祭ってもらっている龍泉院でおごそかに執り行われた。

参加者は一様に「どの団体も救済事業に対して真摯な姿勢であることが実感された」とその成果を語っていた。結果として、四者の信頼関係を強めるうえで予想以上の成果を得ることができた印象的な取組みであった。救済事業を二十年以上にわたって続けてきたことによって、互いの信頼強化として実を結んだといえるであろう。

 

(※注)守る会は森永に対し「死亡被害者の遺族の嘆き悲しみにこたえる誠意ある措置」を要請していた。これに従い森永は、誠意ある措置の一環として会社の責任において慰霊碑建立を行うこととした。森永は守る会三役と協議しつつ、宗派を越えた全国の霊場である高野山奥の院に供養像を建立。一九八六(昭和六十一)年に竣工。その年から毎年、森永と守る会が合同の慰霊祭を催している。

 

⒒ ブロック制の実施

 

・機構等検討委員会で事務局体制の改革を考える

より長期の救済事業を保障するために、「四十歳以降のあり方」を確立して、安定した事業内容が見通せるようになった。そうすると自然につぎの課題となったのは、その長期を見通した事業内容を揺らぐことのないように実行するための体制づくりであった。

じつはこの課題に取り組まねばならないということはすでに「四十歳以降のあり方」で以下のように確認していたのである。「『四十歳以降のあり方』実施の推移を見ながら、より効果的効率的で恒久的な組織のあり方を検討し、現在の事務所の統廃合をふくめて運営・体制全体にわたって長期的に見直しをおこなう」ここには、高齢化して去らねばならない時期を目前に控えた親族の「子を思う親の気持ち」が痛いほどに表れている。自分たちがいなくなっても、被害者たちが最期までちゃんと救済されるように、事業内容の整理と体制の整備を仕上げておきたいと願ったのである。

一九九六(平成八)年のひかり協会常任理事会は右のような「四十歳以降のあり方」で確認された課題を検討することを目的に守る会と協会による「機構等検討委員会」を設置した。委員会は機構検討の基本的な考え方を、①協会の存続発展を図る機構であること ②協会事業の推進のため、より効果的・効率的で簡素な機構であること として検討をすすめた。二年間の検討を経て、委員会はブロック制導入を最終報告書としてまとめた。

ブロック制とは、現地事務所(十七事務所、三連絡所)を七つのブロックに再編し、各ブロックに地区センターを置くというものであった。これは、ひかり協会の現地事務所の過半数が職員数一~二名という状態からくる集団的に事務所機能を発揮することが困難である状態を改善するのがねらいであった。ブロック内の各事務所の職員が、それぞれ蓄積してきたものを生かし、地区センターを単位に県事務所の枠を超えた協力体制をとり、全体として一定水準の現地機能が発揮できる体制をつくることが、その第一の目的であった。第二の目的は、一事務所のかかえるアンケート①の被害者数が三十七名~千名という不均衡があり、配置の不平等を改善することであった。

また、現場を基本とした事業実施に転換するために、事務局の本部と現地の役割分担を明確にするとともに、地区センター長に事業実施に関する大幅な裁量権を与え、地区センター長の自主的な判断により事務を処理できる制度にするという方針も示した。同時に事務を簡素化したり会議を削減したりして、職員が被害者と接する時間を増やすことが重視された。時代の流れを受け、パソコンの導入などを決めたのもこの時である。

 

・ブロック制への移行

機構等検討委員会が作成した「事務局体制の改革構想」を具体化し、円滑に移行するために、協会理事会は「移行推進委員会」を設置した。この委員会の委員長には守る会の理事長(被害者)副委員長には協会常務理事でもあり守る会副理事長でもある被害者が選ばれ、今後の協会事業に被害者自身が責任をもつという姿勢をあきらかにした。

移行推進委員会は、

①ブロック制への移行

②地区センター長への裁量権の付与

③本部の任務

④現地の任務

⑤運営体制の改善

⑥専門家の協力体制

⑦理事会の運営

⑧事務所統廃合の時期

以上の八項目を検討課題とした。

まず事務局長のもつ裁量権を大幅に地区センター長に振り分けることとした。現地を基本とした事業に転換するためである。そして七地区センター事務所を設置した。(※注) センター長は理事長が任命するとした。任命に当たり、守る会との円滑な協力関係を確保するため、地区内の守る会との事前の協議を行うとした。裁量権の振り分けにともなって、本部と現地の任務を新たに整理した。

理事会、常務会の運営見直しや専門家の協力体制の見直しも行った。認定委員会を廃止し、救済審査・保健医療・教育福祉の三専門委員会をひとつにまとめることとした。また、地域救済対策委員会は、これまでの金銭給付の審査を主とする活動から、今後の活動の中心を行政協力の促進、障害のある被害者の自立に向けたコーディネート活動やネットワークづくりへの専門的な援助、協力を主な任務とすると改めた。

また、新たに職員の評価制度を導入し、職員が自主的にたてた計画にもとづいて毎年到達状況を把握し、職員としての力量を向上させることを目的とした。長年にわたって実施してきた「健康と生活」の実態把握活動についても、効率化・簡素化を図り、協力員活動の「よびかけ」「おたずね」活動へと発展させられていくのである。この協力員活動については、第3章の協力員活動の項をお読みいただきたい。

さらに、ブロック制への移行が定着し、その後の地域の条件やブロックの状況を把握し見極めたうえで、事務所の統廃合を理事会が判断するとした。

こうして、一九九九(平成十一)年度よりブロック制への移行が開始され、二年間で完了させ、以後定着するのである。

 

(※注)ブロックごとの地区センターおよび都府県事務所、管轄区域はつぎのようになった。

関東ブロック=関東センター(東京都事務所のみ)…関東全都県、北海道、東北全県、新潟、山梨

東近畿ブロック=東近畿センター(京都府・滋賀県・奈良県事務所)…京都、福井、滋賀、奈良、静岡、愛知、岐阜、長野、石川、富山、三重

西近畿ブロック=西近畿センター(大阪府・兵庫県・和歌山県事務所)…大阪、兵庫、和歌山

東中国ブロック=東中国センター(岡山県・島根県事務所)…岡山、島根、鳥取

西中国ブロック=西中国センター(広島県・山口県事務所)…広島、山口

四国ブロック=四国地区センター(香川県・徳島県・愛媛県・高知県事務所)…四国全県

九州ブロック=九州地区センター(福岡県・熊本県・鹿児島県・長崎県事務所)…沖縄を含む九州全県

・傍線の事務所にセンター事務所を設置した。なお、四国地区センターは途中で愛媛県事務所に移った。

 

 

⒓ 第一次10ヵ年計画

 

親族と被害者の「協会はいつまでも存続してほしい」という願いにこたえて、救済事業内容については「40歳以降の被害者救済事業のあり方」で、運営体制については「ブロック制実施要綱」(実施要綱)で確立した。ブロック制実施要綱では「協会の今日の発展の基本的な力は三者会談の継続と協会を支える守る会との協力関係を強化することにあること。この基本が今後の発展方向である」としている。しかし、まだその本格的な実施、定着についてはさらに関係者が一丸となって力を注ぐ必要があった。つまり第一次10カ年計画は「四十歳以降のあり方」と実施要綱に基づくものであり、被害者の主体性を重視して作成したものである。とりわけ被害者が中心となった守る会がより主体的に参加することによって、将来像を描き計画的に実施していくことが求められた。こうした状況の中で「第一次10カ年計画」(「10カ年計画」)が開始されるのである。

 

・「10カ年計画」の描く将来像と計画の概要

つぎの二点を「10カ年計画」の将来像として位置づけている。

① 障害のある被害者の将来設計実現の援助

特に生活の場および後見的援助者の確保という課題がある被害者に対して、適切な協会事業の実施と行政協力等が具体化され、個々の障害のある被害者の将来設計が実現する、ないしは実現が見通せること。

② すべての被害者の自主的健康管理の援助

守る会の組織的な参加と協力を得て、「健康についての救済事業協力員活動」を定着させ、アンケート①対象者の健康を守るために被害者自身の主体的活動が活発に展開されること。

そしてつぎのように、四期に区切ってそれぞれの目標をもって計画的に取り組むこととした。

第一期 (二〇〇一〈平成十三〉~二〇〇二(十四)年度)

ブロック制の定着と第一次10カ年計画の確定及び将来設計実現と自主的健康管理の援助計画の作成

第二期 (二〇〇三〈平成十五〉~二〇〇四〈十六〉年度)

定着後の事業の促進・協会三十年史の編纂

第三期 (二〇〇五〈平成十七〉~二〇〇七〈十九〉年度)

実施要綱に基づく重点事業の実現。この期は10カ年計画の中心的な取組みすなわち二つの重点事業を本格的に実施する時期と位置づけられた。実際には二つの重点事業は前倒しされて行われた。また事務所統廃合の準備期間として位置づけられた。

第四期 (二〇〇八〈平成二十〉~二〇一〇〈二十二〉年度)

県事務所を統廃合し、地区センター事務所を中心とする。第三期の重点事業の実現に引き続き取り組むとともに、事務局の完全なブロック体制(事務所統廃合)を完了するとした。これにともない地域救済対策委員会も改革することとした。さらに、五十五歳以降の事業・運営・体制のあり方(第二次の10カ年計画)を作成するとも定めている。

 

・五十周年記念式典、合同慰霊祭

二〇〇五(平成十七)年は事件発生五十年の節目の年である。

九月に、和歌山県の高野山で、被害者の代表である守る会と加害企業である森永乳業が主催し、国(厚労省)とひかり協会が後援して「五十周年記念式典」を開催し、同時に合同慰霊祭を執り行う。被害者救済のために関係四者がそれぞれの立場で責任を果たしているということの確認の場であり、今後にたいする決意表明の場でもある。また、四者の信頼関係の証(あかし)の場でもある。

三者会談方式で救済事業が進められるなかで五十周年を迎えられることは、守る会、国(厚労省)、森永乳業の三者が誠実に「三者会談確認書」を履行しているからである。また、それぞれの団体が被害者の恒久的な救済を中心において話し合いを重ねてきたからにほかならない。そしてそこには、「金が欲しいから運動してきたのではない、子どもらの将来にわたる健康と幸福な生活の保障を」と訴え続けて、闘いの時代から建設の時代へと運動を発展させてきた被害者の親たちの願いが息づいていることがわかる。

「五十年」は、恒久救済事業にとってもそれをささえる守る会運動にとっても通過点でしかない。今後も予想を超える困難が待ち構えているかもしれない。しかし、親たちの願いと被害者どうしの「友愛・連帯・互助の精神」を生かすならば、その困難を乗り越えて、今後の六十周年、七十周年も救済事業と守る会運動が着実に進められている状況のなかで迎えることができるであろうと確信をもっている。

 

 

「14年目の訪問」40周年記念シンポジウムの記録画像を配信中
 (「事件と被害者救済」の一番下のページを開いてください。)

 
ひかり協会ホームページもご覧ください

    http://www.hikari-k.or.jp/

 

● 60周年記念冊子(還暦記念誌)500円で頒布中。お申し込みは、06-6371-5304(守る会 平松)まで。どなたにでもお分けします。

● 記事内容で個人名が書かれているものもあります。お名前の削除要請については上の電話番号までご連絡ください。 

 

 

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