式典は9月6日午前10時から開始され、以下の式次第で進行しました。
1.開会 実行副委員長 木下 明
2.実行委員長挨拶 実行委員長 塩田 隆
3.団体挨拶
森永ひ素ミルク中毒の被害者を守る会理事長 桑田正彦
厚労省健康・生活衛生局総務課課長 若林健吾
公益財団法人ひかり協会理事長 前野直道
森永乳業株式会社代表取締役社長 大貫陽一
4.誓いの言葉 守る会常任理事 齋藤 弘
実行委員長挨拶(守る会副理事長 塩田隆)
実行委員長を仰せつかっております、守る会副理事長の塩田です。
本日は、ご出席の皆様におかれましては、公私ともにご多用のところ、遠路、高野山までお運びいただき、誠にありがとうございます。心より感謝申し上げます。また、40年、50年、60年の式典に続いて、事件発生から70周年の記念式典を、関係四者の協力により開催できましたことを、ともに喜びあいたいと思います。
さて、70周年記念式典の意義についてですが、ひとつには、「70年前の130人もの赤ちゃんが亡くなるという悲惨な事件を忘れることなく、不幸にしてこれまで亡くなった被害者を悼み、二度と同様の事件が起こることのないように「祈り念ずる」という「祈念」の意味も込めた式典であること」。同時に、「70年経った今でも救済が続けられているという事実を再確認し、これからも“最後の一人まで救済を継続する”という決意を、改めて記し念ずる式典であること」。双方ともに大切な意義ではないでしょうか。
すなわち、本日開催しております記念式典並びに合同慰霊祭は、第一に亡くなられた被害者に対する慰霊の場であり、第二に二度と同じような事件を繰り返さないという決意の場であり、第三に恒久救済完遂のために関係者が協力を続けるという誓いの場なのです。
この10年間には、被害者だけでなく協力専門家など、救済事業の開始や発展にご尽力いただいた方々も多数お亡くなりになりました。すべての方々に、心よりご冥福をお祈りいたします。
また、この事件は前例のない乳幼児に対する大規模な食品公害ですが、食の安心・安全に対する企業の社会的責任が軽んじられることのないよう警鐘を鳴らし、二度と同じような事件を繰り返さないという決意を固め合いたいと思います。
さらに、1973年(昭和48年)12月に、厚生省、守る会、森永による確認書が締結され、翌年4月にひかり協会が設立されて以降、いわゆる「三者会談方式」による被害者救済事業が開始され、以後50数年にわたって途切れることなく続けられました。ここ数年間は「前人未到の被害者救済事業の終盤をどのようにするか」について検討を重ね、2025年3月に大きな枠組みである「終生にわたる事業と運営・体制の構想」を、四者の合意を得て決定することができました。
本日の記念式典が、これら四者の信頼関係を確認し合うとともに、恒久救済完遂を誓い合う場となることを心より祈念いたしまして、実行委員会を代表してのご挨拶といたします。
守る会理事長の桑田でございます。
本日の事件70周年記念式典の主催者としてごあいさつを申し上げます。
このたびの式典に「三者会談」を構成する厚生労働省、森永乳業、ひかり協会の代表にご出席を賜り、厚くお礼申し上げます。
最初にこれまでに亡くなられた被害者及び親族並びに救済事業関係者の方々を悼み、心からご冥福をお祈り申し上げます。
森永ひ素ミルク中毒事件は、1955年に起こり、当時、1万3千名を超える乳幼児が被害にあい、130名もの尊い命が失われました。
親の嘆き悲しみは察するに余りある、はかり知れないものでした。
我が子を救い守るために親達は組織を結成し、全力で闘いましたが願いを達成することはかなわず、組織の解散を余儀なくされました。
しかし、一部の親達は我が子の行く末を憂い、新しい組織として、今日につながる「こどもを守る会」を結成し、活動を続けました。
幸い、1969年には、良識ある専門家による「14年目の訪問」が発表され、事件は再び大きな社会問題となりました。
これを機に親達は再結集し、守る会は全国組織へと発展しました。
そして親達は、組織を挙げた討議を経て、事件当時の闘いの教訓を踏まえた全被害者救済の方針として、恒久対策案を決定しました。
あわせて守る会は、「加害企業は加害企業の立場で」「行政は行政の立場で」「親は親の立場で」こどもたちを救い守る事業に協力しあうことができると訴えました。
その後守る会は、事件の解決をめざして、森永製品の不買(売)運動や民事訴訟を展開しましたが、一方で当時の厚生省の呼びかけに応じて、1973年10月には第1回三者会談に臨み、12月には三者会談確認書が締結されることとなりました。
この三者会談確認書に基づき、翌1974年4月に公益法人として財団法人ひかり協会が設立され、以来51年におよぶ全被害者を対象とした救済事業が実施されてきました。
その過程で守る会は組織を親から被害者に引き継ぐため、組織の名称を「こどもを守る会」から「被害者を守る会」に改称し、入会資格を両親のいずれかと被害者本人としました。
現在の守る会組織は、およそ2400名の被害者と26名の親族で構成されており、近年は徐々に会員数が減少している状況にあります。
そのため、恒久救済事業の今後の展望では、可能な限り長く守る会組織を存続させていくことが極めて重要な課題となっています。
これまでの半世紀の救済事業では、厚生労働省、守る会、森永乳業の三者がそれぞれの立場で三者会談確認書を誠実に履行してきたことが最も重要です。
加えて、都道府県市区町村などの行政機関、保健・医療・福祉・労働・介護などの関係機関、およそ300名におよぶ専門家の協力が不可欠でした。
守る会は、恒久救済実現に責任をもつ立場から、2023年に「終生にわたる事業と運営・体制の構想」に係る守る会の提言を決定しました。
そして関係者の討議を経て、本年3月、ひかり協会は守る会の「提言」を尊重した「終生にわたる事業と運営・体制の構想」を決定されました。
この「構想」の基本的事項である「すべての被害者が亡くなるまで救済事業を実施することが、恒久救済の原則である」は、恒久対策案に示された親の悲願を具体化しています。
そのため守る会は、この「構想」の具体化をめざし、唯一の被害者団体として役割と責任を全力で果たしてまいります。
厚生労働省及び森永乳業におかれては、「構想」に基づきひかり協会が実施する救済事業への協力を実行されるよう要請します。
最後に、すべての被害者の恒久救済を展望し、本日ご出席の各団体代表のご健勝を願い、私からのごあいさつといたします。
厚労大臣挨拶(課長 若林健吾代読)
ひかり協会理事長挨拶(前野直道)
ひかり協会理事長の前野でございます。初めに、この70年の間に不幸にして亡くなられた森永ひ素ミルク中毒事件の被害者1797名の方々のご冥福をお祈り申し上げます。また、わたくしたちの大恩人である丸山博先生の遺影を右の机の上に置いてみました。見て頂いているのではないかと思います。
本年は終戦から80年、そして森永ひ素ミルク中毒事件から70年の年であります。
漫画家のやなせたかしさんは、敗戦によって、今まで正義だと信じていたものが、正義でなくなった。正義が逆転してしまった。それ以来、逆転しない正義とは何かを考え抜き、たどり着いたのが、逆転しない正義とは、愛と献身である。こうしてアンパンマンが誕生したそうです。
実は、ひ素ミルク中毒事件の被害者の親族も1955年の事件当時に闘ったものの、初めは好意的だった世論が、死亡者1人250万円という当時としては高額な賠償請求額を報道された途端、支援の波が一気に引いてしまい、戦いに敗北しました。
それから14年後、丸山博教授らの発表を契機に、守る会は再結集し、運動を再開するのですが、かつて敗北の苦い経験を味わった親たちは、守る会運動は子供を救い、守る運動であるから、金銭賠償は求めない。しかし、子供には恒久的な補償という運動の原点を明確にしました。
これは、過去14年間放置されてきた被害者の親たちの心からの叫びであり、願いでした。親たちは、人が人である限り、決して逆転することにない正義、子供への愛と献身のみを原動力として戦うことを決めたのです。
恒久救済を求める運動は、この世で最も純粋で揺らぐことのないものであったと言ってもいいではないでしょうか。この親たちの闘いが広がり、全国の被害者と親族が一つになり、固く団結した結果、今度は社会から圧倒的に支持され、森永の側も人道的立場から親たちの掲げる恒久救済を認めざるを得なくなり、被害者救済が1974年から開始されることになりました。
そして、運動を受け継いだ被害者の皆さんも、しっかりと親族の願い、正義を引き継ぎ、そして、それに加えて、仲間として、被害者仲間として、支えあっていらっしゃいます。
事件から70年、救済事業から開始してから51年の歳月が過ぎました。今も、ひかり協会では、高齢になった被害者、お一人、お一人の救済事業内容を充実されるために、実態把握調査を実施し、あるいは、被害者の方の訪問を行い、日々努力しております。
本年3月には、わたくしども、ひかり協会が、責任をもって最後の1人まで被害者救済を続けることを明確にした将来構想を決定いたしました。
事件から70年たっても、本日、このように、被害者団体、加害企業、国、救済機関の関係者が一堂に会して、被害者への慰霊を捧げ、恒久救済を誓う式典が立派に開催されることを、お亡くなりになった被害者や親族の方々がご覧になったとすれば、きっと安心されるのではないかと、わたくしは思います。
改めて、亡くなられた被害者の方々への慰霊と恒久救済完遂に向けた決意を申し述べまして、ご挨拶といたします。
森永乳業社長挨拶(大貫陽一)
森永乳業の大貫でございます。森永ひ素ミルク中毒事件70周年記念式典の開催にあたりまして、一言ご挨拶申し上げます。
はじめに、これまでにご逝去されました方々の御霊に対しまして、深く哀悼の意を申し上げ、ご冥福をお祈り申し上げます。
弊社の育児用粉乳にひ素が混入し、多くの方々に甚大な被害を与えましたことを、改めまして深くお詫び申し上げます。また、事件発生以来、今日に至るまでの、被害者並びにご親族の皆様のご辛苦に対しまして、心よりお詫びを申し上げます。
本日は、守る会、厚生労働省、ひかり協会の皆様には、ご多用のところ、遠路よりご参集賜りまして、厚く御礼申し上げます。また、平素から救済事業に対して、皆様よりひとかたならぬご尽力を頂戴しており、心より感謝を申し上げます。
救済事業におきましては、被害者の皆様が70歳の節目をお迎えになる重要な時期にあり、「終生にわたる事業と運営・体制」の構想が決定されました。今後、構想に基づき様々な検討が行われ事業が実施されていくものと存じます。
先ほど、奥の院で参拝した慈母観音像には、御霊のご供養と恒久救済への願いが込められております。節目の年に、この地において、「三者会談」を構成する4団体が一堂に会して、恒久救済の完遂に向けた協力の継続を誓うことは、誠に意義深いことと存じます。
弊社と致しましては、予てより申し上げております通り、この事件を、一生背負うべき「十字架」であると考えており、「三者会談」の約束を守り、責任を全うすることを、重要な経営方針の中軸に据えて参りました。
今後とも、この方針の下に、恒久救済事業の完遂に向けて、全社を挙げてその責任を果たして参ります。また、社内において、この事件が風化する事の無いよう、引き続き研修などを通じ、事件の歴史的経過と「三者会談確認書の精神」を揺るぎなく継承して参る所存でございます。
また、「食の安全確保」を第一の使命と認識し、私をはじめとする森永乳業グループ社員一同、「二度と過ちを繰り返さない」という強い決意を改めて胸に刻み、全社を挙げて、品質管理の徹底を図って参ります。
結びとなりますが、本式典の意義を心に刻み、恒久救済の完遂に向けて、責任を果たし、全うすることを強くお誓い申し上げて、ご挨拶とさせていただきます。
誓いの言葉(守る会常任理事 齋藤 弘)
1955年の森永ひ素ミルク中毒事件発生以来70年が過ぎました。
事件は、13464名の乳幼児に被害をもたらし、当時だけでも130名の乳児が死亡するという、世界でも例をみない悲惨な食品公害事件でした。
親達が皆、後遺症など、我が子の将来に不安を持っていたにもかかわらず、1年後には事件は「解決」したとものとされ、被害児とその家族は放置され、身体的・精神的・社会的に極めて厳しい状況におかれてしまいました。
しかし、その14年後に大阪大学の丸山博教授らによる「14年目の訪問」が発表され、事件は再び世に問われることとなり、親達は再び守る会に結集しました。
守る会は、一刻も早く被害者に対する救済事業が開始されることを願い「森永ミルク中毒被害者の恒久的救済に関する対策案」を決定し、その実現のために裁判や不買(売)運動も提起しました。
その結果、社会から大きな支援をいただき、被害者救済への大きなうねりが生まれました。
そして、厚生省より事件当事者の会談が呼びかけられ、守る会・厚生省・森永乳業による三者会談が1973年10月に開始され、12月には「三者会談確認書」が合意締結されました。
この三者会談確認書に基づき、1974年4月に全被害者を対象にした救済事業を実施するための財団法人ひかり協会が設立されました。
以後、ひかり協会による救済事業が脈々と続き、今では多くの被害者と親族から「ひかり協会があってよかった。いつまでも救済事業を続けてほしい」という声が寄せられるようになっています。
この51年間「三者」の信頼と協力関係はますます強化され、救済事業は発展してきました。
そして、本年3月には関係者の合意を得て、「終生にわたる事業と運営・体制の構想」が決定され、「すべての被害者が亡くなるまで救済事業を実施する」という恒久救済完遂のゆるぎない展望が示されました。
ここに私達は、これまでに亡くなられた1797名の被害者のご冥福を心よりお祈り申し上げます。
また救済事業の基盤を築き被害者自身に引き継いでくれた親達や見守り支えていただいた全ての関係者に改めて感謝いたします。
私達は、森永ひ素ミルク中毒事件を風化させず、この事業と活動の精神を後世に引き継ぐために力を尽くし、二度と同様の事件を起こさせないことを誓います。
そして、守る会、厚生労働省、森永乳業、ひかり協会、この四者の信頼と協力関係をいっそう強化し、被害者救済事業を完遂することを誓います。
以上をもって誓いの言葉といたします。
