歴史的な第27回日本公衆衛生学会での訴え
(守る会発行『歴史学習版』より抜粋)
深夜、帰宅した主人は興奮しきった声だった。「今度こそ、みんな救ってもらえるぞ。明日、岡山で第27回日本公衆衛生学会が開かれるのだ。そしてその席上で、阪大の丸山教授を中心としたグループが砒素ミルク中毒児の追跡調査した新しいデータを発表してくださるそうだ。それに対決して阪大小児科の西沢教授が同席するので、大勢のマスコミの応援もあり、我々も出来るだけ出席し会場の先生方にお願いすることになった。岡山は勿論県外からも親御さんが来ているので、我々も親子3人で行こう」ということだった。
翌日早朝、親子3人は公衆衛生学会会場前で、垂れ幕の傍らに他の親御さんと並んだ。続々とつめかける会員さんは「ああ、昨夜見たミルク中毒の被害者の方々だ」とささやきながら入場していく。と、異様なざわめきが遠くから聞こえる。見ると、阪大西沢教授が大勢の助教授・講師陣を従えて乗り込んできたのだ。会員でない西沢教授が、丸山教授との対決のために来岡したのだ。マスコミが、カメラ・マイクをもって追いかける。私共が手にした垂れ幕には「阪大・西沢教授(森永顧問)ふたたび森永の手先になるのか」と書かれていたが、西沢教授は一べつしたのみで会場へ消えていった。
(日本公衆衛生学会会場、そして市役所で)
私はこの日1日を、生涯忘れることはできない。今もなお会場の様子、そして公衆衛生学会会員の一人ひとりの発言、そして異常なまでに緊張した空気がパンラマのように脳裏に映し出される。
学会員でない私たちは、会場に入ることは許されないが、座長さんのご厚意により廊下での傍聴は許された。勿論、窓は全部開けてくださって・・。
会場内には、「森永ミルク中毒児14年目の追跡調査」をめぐって白熱の論戦が展開されていた。丸山教室の飯淵先生の問題提起、それに反論する西沢教授、丸山教授の追及、大塚養護教諭がまとめた被害児の実態を本にして、人間として、医療人として現実に病魔に苦しむ患者をボイコットし続けた医学界の姿勢・社会を追及する人間性の論争だった。私共は声もなく祈る思いで聞くのみだった。
西沢教授「これだけ重要な研究をまとめた研究にただ一人も医師が入っていないのは・・・」(臨床医が入っていないデータは信用できないとの言外の意)
その時、岡山市の開業医遠迫先生が、私の長女を連れて登場し、昭和42年協同病院で集団精密検査をしたデータをつかって説明された。今までの検診データは陽の目を見ることもなく眠っていたが、ここで重要な資料として登場したのだ。遠迫先生は最後にこう結ばれた。「私共はこの結果だけで後遺症とは断定できないけれど、少なくとも今回の検診で分かったことは、被害児の中には正常でない子がかなりいるという事実だ。これは国または森永乳業が責任をもって検診をし、適切な措置をすべきである」と。
この後も論争は続いたが、丸山教授はさらに「この14年間、森永中毒事件について関係することが医者の間で如何にタブーになっていたか、みなさんよくご存じでしょう。どこのどの医者がこの問題解決のために協力してくれましたか。医学に携わる一員として、今までの姿勢を反省し、今後の行動を考えるべきではないか。」と強い口調で結ばれた。
そして、事件当時の元岡山県衛生部長は立ち上がり、「私は、自分の一生をかけても償いきれない重大な過失を犯してしまった。あの頃、私がもっと慎重な判断をしていたならば、こんなに大勢の病弱な被害児が出なかっただろうに。私はどんなにあやまってもあやまりきれない気持ちでいっぱいです。」とうめくように発言されたことが今でもまぶたに焼き付いている。
そして、公衆衛生学会の空気は、次第に私共ミルク中毒者を救おうという雰囲気となり、座長さんの提案により、会場をかえミルク中毒に集中して論議されるに至った。
(特別会場・市役所7階)
すでに、公衆衛生学会は閉会され自由参加の形だったにもかかわらず、急きょ借りた広いホールには立錐の余地もない参加者だった。多人数のため机も椅子も取りのけられ、全員立ったまま。会場にいないのは阪大小児科医西沢教授を中心とするグループのみであった。
「被害者がこの14年間、社会から医師から行政からどのような扱いを受けたか、またどのような訴え・意見を持っておられるのか生の声を聞きたい。」との提案により、主人は長女を連れて皆さんの前に立った。そして、「私の子は今、就学延期を2回して中学1年ですが、ここにどんな理由で立っているのかわかっていないと思います・・・。」と主人は続けて
・病弱の子どもを抱えた親の不安
・医療人に見放され、十分な診療が得られないあせり
・絶望のどん底で、同じ仲間が唯一の支えになっていること
・そして、今日光明を見つけ、すがりつきたい気持ち等々、切々と14年間の心情を訴え続けた。
会場にはすすり泣きがあふれ、最後尾にいた私も、現在までの家族の苦しみ、そして希望のない仲間との苦しいたたかいが思い出され、あふれる涙をどうすることもできなかった。傍らにおられた岡崎哲夫さんが「これで救われる道が開けた。長い戦いだげ、やっと光明が見えた。」とつぶやきながら窓の方を向いておられたのが強く脳裏に焼き付いている。
関西医大の東田教授が、「私・・今のお話を聞いて感動いたしました。(絶句してしばらく声なし)この学会で、私たちが問題にしなくてはならないのは、我々が、あるいは我々の同僚が犯した過ちを如何に取り戻すかということです。」この言葉で、これからの対策が話し合われ、医療陣の組織づくりにまで進展したのです。
私共の14年間の悲願がやっと、今、大勢の人に支えられ、かなえられる道が開けようとしているのです。