(注:第2章に登場する人の年齢・役職等は取材当時のものです)
北村藤一氏 略歴
事件発生直後に結成された「森永ミルク被災者同盟全国協議会」(「全協」、一九五五~五六年)の事務局長等に就き、運動を組織し森永乳業・厚生省との交渉の先頭に立つ。「十四年目の訪問」後の一九六九年、「森永ミルク中毒のこどもを守る会」再結集時にただちに駆けつけ、近畿総局長・副理事長を歴任し、守る会の幹部としてひかり協会設立にむけて大きな力を発揮する。ひかり協会においては専務理事に就任し(一九七六~八五年)救済事業の確立のために力を尽くす。現在、兵庫県在住。八十九歳。
(本記事)
黎明期からの闘士
「私が腎臓を悪くした頃、北村さんがそのことを気にかけてくださってねえ、
ずいぶんお世話になったんですよ」
北村さんを訪問する車中、小畑芳三事務局次長は当時を思い出し感慨深げにつぶやいた。
北村藤一氏は昭和三十年事件発生直後から大阪の被害者親族を組織し、岡山の岡崎哲夫氏・黒川克己氏らと「森永ミルク被災者同盟全国協議会」(「全協」)を結成した当初からの“闘士”である。
当時から北村氏をよく知り、自身も後年代表裁判で原告団団長としてともに闘った岡田新次氏(現大阪府本部相談役)は「大変正義感の強い人で、あの頃の彼は家庭を犠牲にして、そうですね、運動というより闘争をしているという感じを受けましたね」
と語る。
苦悩の「全協」事務局長時代
「そうやなあ、あの頃はえらい苦労をしたわ」
現在八十九歳になる北村氏は遠くを見つめながらため息を漏らしたあと、隣にすわっている妻の圭子さんに視線を向けた。
「もう家のことはほったらかしで、ずっと外を駆けずり回っていましてねえ・・えらい目にあいました」
圭子さんも当時を思い出し、厳しい顔つきになる。
昭和四十三年頃に北村氏宅を訪問した大塚睦子氏が「北村さん、もう一度被災者同盟を再建してみる気持ちはありませんか」ときいた事がある。しかしその時北村氏は「とにかくあんな苦しい思い、悲しい思いをするのは絶対いやだ」と答えた。「私は大資本に負けたんだ。私は当時、転職しなければいけないところまで頑張ってやったつもりだったのに、最終的には負けてしまった。あんな思いは絶対にやりたくない」と語っている。
「丸山報告」後、再び闘いの先頭に
昭和三十年当時「全協」は八ヵ月にわたる闘いの幕を閉じたのであるが、森永本社での交渉の席上、北村氏は大野社長に断言した。「あなたらは日本の民主勢力を余りに過小評価している。それはあなたらが考えているほど弱くも甘くもないのだ。これを無視する会社側は後日必ず後悔する日がくるであろう」
この予言どおり、十四年後阪大の丸山博教授の衛生学者としての良心が再び事件を世の明るみに出し、絶望の淵にいた北村氏は再び闘いの舞台に立つことになるのである。
「長い暗いトンネルの中に一筋の光を差し込ませてくださったこれらの友の援助に支えられて、自らの手で自らの足でこの暗闇から這い出る努力をするだけでなく、この友の作業を妨げよう圧殺しようとする敵の勢力から友を守らなければならない」と、再度闘いに立ち上がった決意を述べている。
決意をした北村氏の動きはすばやく情熱的であった。十月三十日の「丸山報告」の後、十一月二十三日には大阪支部を結成し、十一月三十日には岡山市で開催された守る会第一回全国総会で「この守る会を自らの瞳のように愛し守ろう」と熱く呼びかけたことはよく知られている。この精神が守る会の誇るべき全国単一組織の精神として今日まで脈々と受け継がれているのである。
三者会談確認書締結の立役者
「全協」解散後も岡山では「森永ミルク中毒のこどもを守る会」が孤立無援ながらも組織の灯をともし続けていた。この取り組みと「丸山報告」が、全国の被害者親族の再結集とその後の世論に支えられた大運動の展開を可能にした。北村氏は大阪支部代表委員兼本部顧問としてここでも運動の中心メンバーとして活動するのである。
再結集した守る会は「全協」当時の轍を踏まぬよう慎重に方針討議を進めた。世論の後押しもあり、訴訟と不売買運動が順調に進んだ。そういう運動を背景に昭和四十八年九月、厚生省の山口政務次官から守る会に「森永に全面降伏させるからひとつ話し合いの場についてくれないか」と申し入れがありその後の確認書締結まで進むのであるが、このときも北村氏は重要な役割を果たしている。
当時副理事長として厚生省との交渉を担当していた北村氏のところへ山口次官が個人的な意向打診としてやってくる。北村氏は用心しながらも、あらゆる可能性を生かして恒久対策案実現の機会をとらえていこうという守る会方針に沿って決断をすることになる。
北村氏は常任理事であった細川一真氏(現守る会相談役)と「二人の個人的な責任で探ってみよう。もしだめであれば二人が責任をとり、守る会は安泰であるという形にしておこう」と決心して動いた。そして「恒久対策案を認めるか」「因果関係を認めるかどうか」に絞って森永と応酬し、ついに森永に「因果関係を認めます」と言わせ以後、公式の話し合いに入るのである。
このように北村氏が今日に至る救済事業の出発時点において大きな功績をあげたことはだれしもが認めるところである。
専務理事として協会運営の柱に
小畑次長は協会設立当時の様子を振り返り
「それまで森永は敵だと言って陣頭指揮を執ってきた北村さんが、確認書締結後は会社や厚生省と恒久救済のために協力し合うという立場に転換した。そしてその守る会方針を全国の被害者親族に訴えリードしていった。あのエネルギーには今思い出しても頭が下がる」
と言う。先の岡田氏も
「当時の守る会と協会の牽引車だった。今日の基礎を作るのに大きく貢献した人だった。アカンことはアカンとはっきり言う潔癖なところがあった。同時に面倒見のいい人でもあった」
と思い出す。
その後昭和五十一年から六十年の間協会の専務理事として今日の協会事業の基礎づくりに大きな力を発揮するのである。
夫婦ふたりの穏やかな日々
協会専務理事を引退してから二十年の年月が経つ。長年住み慣れた大阪市内を健康上の理由から二年前に離れ、現在は圭子さんと二人で隣県にある特別養護老人ホームで穏やかな日々を過ごしている。往時の〝眼光炯炯(けいけい)たる闘士〟の面影も今はなく、守る会や協会で活躍していた頃を思い出すことも近頃はほとんどないと語る。
しかし、現在の守る会と協会の基礎を創り上げるために激烈な闘争に明け暮れした功労者であることはまちがいない。深い感謝の気持ちを胸に抱きながら、閑静な住宅地のなかにあるホームをあとにした。
小畑芳三氏
「被害者の会」設立時から運動に参加。その後大阪府本部事務局長、全国本部事務局次長を経て二〇〇五年六月より理事長。原則的な発言と活動には定評がある。腎臓病悪化のため一九七七年より人工透析を続けている。
かつて師と仰いだ北村さん 小畑 芳三
「大阪に北村あり」といわれた時代がありました。「森永ミルク中毒のこどもを守る会」全国本部副理事長、北村藤一その人である。
協会設立当時の守る会「三羽ガラス」岡崎哲夫、黒川克己、北村藤一この三人は忘れることのできない親御さんたちです。とりわけ、北村さんは大阪に在住されていたこともあって十代のころから親交があり、小生にとっては師と仰いだ忘れることのできない親御さんの一人です。
あれは確か三者会談の確認書を締結した一ヵ月後のことでした。あまりの情勢の変化の速さに下部機関の守る会役員が狼狽していた時にお電話をしました。「裁判も取り下げ不買運動も中止するという方針で大丈夫でしょうか」北村氏は一喝。「そんな自信のないことでどうする。これからは確認書の中身を実行していくことこそ大切で、それこそが守る会の使命だ。将来君たち被害者諸君にこの事業を引き継いでもらわなければならない」とお叱りを受けたことが今でも私の脳裏をよぎります。
今回、八十九歳を迎えられた氏と久しぶりに面談する機会を得て私は感慨無量でした。面談を終えた帰り道、私の心の中にふとある名言が浮かびました。「老兵は死なず、ただ消え去るのみ」
編集委員会より
守る会の先輩はじめいろいろな方から協会設立当時の話をうかがっていると、「北村さん」という名が必ず出てきました。そして常に「矍鑠(かくしゃく)とした人だった」というのが共通した評でした。
今回小畑さんに同行してお住まいのホームを訪問しましたが、ご高齢のせいもあり当初予定していた対談形式は断念せざるを得ませんでした。結果この紙面のような記事となった次第です。しかしご夫妻から歓迎していただき、しばし有意義な時を共にすることができました。昔ながらの背筋をしゃんと伸ばした姿勢で元気そうなご様子であったことは写真からもおわかりいただけると思います。
今回の訪問の実現にご協力下さった方々に深くお礼申し上げます。