「14年目の訪問」にかかわる話②(中坊公平さん)

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「14年目の訪問」以降ひかり協会設立まで


                「 原 点 」

                  中坊公平さん(弁護士・森永ミルク中毒被害者弁護団長)

「原点」という言葉があります。人生の中にもこのような「原点」となる体験があるのではないでしょうか。
 私にとってのそれは、森永ミルク中毒の被害児を訪問したときの体験です。
 私は昭和32年に弁護士になりましたから、その時までにすでに16年私なりの充実した弁護士生活を送り、世の中のことも一応分かっていると思っていました。しかし、被害児の家を訪ねて、この目で見、この耳で聞いた現実は私にとってあまりにも強烈でした。
 私が、被害児の訪問を始めたのは、本当に被害があるのかを疑ったからです。昭和30年にひ素入りミルクを数か月飲んだのち18年も経過して今なおその後遺症があるということについて、弁護団長になりながら自分自身納得がいかなかったのです。
 私は、昭和48年の2月頃から約半年程の間、日曜日と祭日すべてをこの訪問にあてました。1日に数人の被害児宅を訪問できたこともありますが、僻地も多く1日に1人、あるいは泊りがけで一人、あるいは1日だけでなく数日がかりで訪問したこともありました。
 訪問を続ける中で、まず私は私なりに一つの予断をもっていることに気づきました。たとえば、被害児や両親からはきっと森永や国を激しく追及する言葉が聞かされると思っていました。しかし、事実は逆でした。被害者の集会では、あれほど強く森永や国の責任を問題にした人たちが、家では、誰一人一言もそのことを言わないのです。
 「乳の出ない女は母親になる資格がなかったのです」「1歳に満たない子がひ素入りミルクを飲まそうとするのを手でしぐさして払うのです。払った時に何故おかしいと気が付かなかったのか。愚かでした。不注意でした」「金線入り(これは普通品より高額でした)にはひ素が入っていなかったのです。子供を育てるのに金を惜しんだ自分が情けない」
 時として母親は泣き崩れながら話をするのです。私はこの人たちを慰める言葉を持ちませんでした。人間の一生を台無しにするような被害はこのようにして横たわっていたのです。深刻な被害ほど言葉もなく、叫ぶこともなく、耐えることだけがすべてであると教えられました。そして他人を責めるよりは自分を責めることがむしろ解決であり慰めであることも分かりました。
 18歳でてんかんの発作を繰り返しながら死んでいった子の母親からこんな話も聞きました。
 「この子が18年の人生の間に話せた言葉は『お母』『マンマ』『阿呆』の3つだけでした。しかし自分は『阿呆』だけはだけは教えたことはない。それなのに3つしか言葉を言わないこの子にこれを教え込んだ世間が憎い」と母親ははじめて悲しい怒りをおもてにあらわしました。
 同じ母親はまた続けてこんな話もしてくれました。
「この子は大きくなってもよく迷子になりました。上着の表に名前と住所を書いた大きな札を縫い付けました。こんな上着を着ていても子は外へ遊びに行くことを望みました。外ではよく近所の子に水をかけられたり、砂をかけられました。しかしこんなにいじめられてもこの子は人の前では泣きませんでした。人にはこの子は悲しいことも怒ることも知らないと思われていたのです。しかし決してそうではありません。この子は家に戻って母親の手にすがった時、はじめて大きな声を出して泣いたのです。
 抵抗できる被害者はまだよい。抵抗できない被害者のいることもはじめて知りました。
 「オ母チャン、オ茶」手足の動かない被害児が母親にせがみました。母は無造作に薄いベークライトの皿にお茶を注ぎ子の前に置きました。子は舌だけでペチャペチャと音を立てて飲んだのです。「アツイ」「しばらくおいとき、すぐさめる」私は一瞬目をそむけました。しかし、これがこの被害児の日常生活なのです。「山に登レタラナア」と登山のフラッグを壁に貼り付けて、子は楽しく笑いました。
 どんなに悲しくとも、どんなに淋しくても笑いはあるのだと知りました。
 このような体験が毎回続けられ、私はしまいに鉛を飲まされているような感じになりました。同時に、あらためて今私たちが提起している裁判にどれだけの意義があるのかと考えました。せめて健康な体を返せと請求できたらと思いました。このような被害でも金銭でしか請求できない裁判制度そのものの限界を知りました。
 私は弁論で、「私たちは裁判を提起しました。しかし、裁判で闘うのは真の目的ではないです。今からでも遅くない。この被害を救済してほしいのです」と述べました。そして心の底からこんな弁論をしている自分に驚きました。
 被害児訪問、それは私にとっての人生の「原点」でした。

          (1990.10.1 総理府編集 『時の動き』・「政府の窓」より)

森永ミルク中毒被害者弁護団長 中坊公平さんの冒頭陳述

 私達が一番銘記しなければならないことは、この事件の被害者が当時すべて乳幼児であったこと、そして毒物の混入された物質がその乳幼児の唯一の生命の糧であったという事実であります。私は原告弁護団長を引き受けて以来、数多くの被害者のお宅を一軒一軒訪問して参りました。そこで多くの母親たちに面会しました。
 その母親たちが私に一番訴えたことは、それは意外にも被告森永に対する怒りではありませんでした。その怒りより前に「我の我が手で自分の子に毒物を飲ませたという自責の叫び」でございました。
 昭和30年当時、被害者は原因不明の発熱、下痢を繰り返し、次第に身体がどす黒くなっていき、おなかだけがぽんぽんに腫れあがっていきました。そして夜となく昼となく泣き続けたのであります。そういう場合に母親としては何とかしてこの子を生かせたい助けたい一心でそのミルクを飲ませ続けたのです。そのミルクの中に毒物が混入されていようとはつゆ考えておらなかったのであります。
 生後八か月にもなりますと既にその意思で舌を巻いたり手で払いのけたりして、その毒物入りミルクを避けようとしたそうであります。
 しかし、母親はそれをなんとかあやして無理してミルクを飲ませ続けたのです。その結果がますます砒素中毒がひどくなり現在の悲惨な状況が続いてきたのであります。
 この18年間、被害者が毎日苦しむ有様を見た母親が、自責の念に駆られたのは当然であります。母親たちは言いました。私たちの人生はこの子に毒入りミルクを飲ませた時にもう終わりました。私たちは終生この負い目の十字架を背負って生き続けなければならない、かように叫んだのであります。
 この母親たちのこの自責の念というものは一体どこから出ているのでしょうか。この母親が何故こういう叫びをするのか。これは自分の子どもが自分に寄せておる絶対的な信頼を裏切ったことに対する自責の念なのです。安らかに眠っている子供を見て、母親だけを信じておるその子供を裏切ったことに対する自責の念なのです。
 しかし、この自責の念は一人母親だけのものでしょうか。私たち人間が赤ちゃんとしてこの世の中に生を受けたとき、私たちはすべて私達より先に生まれてきた人間を信じて生きてくるのです。またそうでなければ生きていけないのです。従って、逆にこの世に生を受けている人間というものは生まれてきた赤ちゃんに対して絶対的に保護し、育成しなければならないのです。
 それは単なる義務ではありません。まさに人間の本能なのです。しかもこの本能は人間が地球上に生き続けていくための基本的本能なのです。従って乳幼児に対する残虐行為ほど許されない行為はないはずであります。またこれほど社会的に非難を受ける行為もないのであります。
 いわんや、その乳幼児の唯一の生命の糧であるミルクに毒物を混入させた本件事案においてその責任をあいまいにするということは人類が自ら自己を抹殺することにもつながると私は考えるのであります。(中略)
 これらの被害者は決して金銭の補償を主たる目的にしておるのではございません。本当の願いは、言い古された言葉ではありますが、やはり身体を元の健康な身体に返してほしい、失った青春を戻したいということなのです。そして、それが少しでも実現できるようにといった具体的救済案なるものを提案しておるのです。まさに、この裁判はこのような意味を持っておるわけでございます。
 私は、この審理を始めるに際しまして、最後に裁判長に一言お願いいたします。どうか一日も早い迅速なしかも公正な審理と公正な裁判をお願いいたします。同時に人間として子を持つ親として暖かい審理をしてやっていただきたいと思うのであります。
 同時に被告森永と国に対して申し上げます。今からでも遅くない。今からでも遅くないんです。日々あなたたちが犯している罪を考えて己の責任を率直に認め真に被害者の救済に当たられんことを切望してやみません。
 

 

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