「14年目の訪問」にかかわる話①(丸山博先生・大塚睦子さん・新妻義輔さんのお話)

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丸山 博 先生 (大阪大学医学部教授・故人)

      事実は語る(『14年目の訪問』の巻頭言)
                    森永ミルク中毒事後調査の会代表
                    大阪大学医学部衛生学教授
                              丸山 博

この冊子で学びとられるものは、昭和30年の森永ひ素ミルク中毒事件後14年間の、被災児とその家族の事実である。考えねばならぬのは、その不幸の根元を根絶やしにする方法である。
この仕事は、事件後の継続観察に無計画だった衛生学者の怠慢とその反省への努力の結果にもとづく、私の発意支持された保健婦、養護教諭、医学生の、良心的、自発的、自主的協力作業の収穫である。無辜(むこ)の被害者がこれまで十数年間苦しんだ悲憤への共感であり、同情であり、再びくりかえしてはならぬ社会悪の告発であり、忠告である。



        『14年目の訪問』復刻版によせて
               1988年5月5日(こどもの日) 丸山 博

泣きながら、乳房を求めても、乳の出ない母親は、店から買いミルクを飲ませた。ところが、このミルクにヒソがはいっていて、100人も1000人も乳飲み子の声明をうばいとったり、きずつけたりした。
生きのびた子どもが中学校を卒業するころまで、その子たちや親たちはヒソのはいっていたミルクのために苦しみ泣いたりした。
14年ものながい年月がつづいた。
こうした実状をあきらかにし、世に訴え、その加害の責任を世に問うたのが、いわゆる『14年目の訪問』であった。
それは、今から20年も昔のことであった。
そのときの子たちは、いま33~34歳になり、親たちは年老いた。
いま、あらためて、そのときの記録『14年目の訪問』を復元して、世に送る。
その意味は、この記録を読む人が発見し、意味づけし、事態を知りつくし、明らかにできるようにと、その後の経過に関係のある参考資料を付録として、加えた。
こうした事件が忘れ去られようとしている時、あらためて、その意味を考えようとする若い人たちのために、また、この事件を知らない人たちに知ってもらうために、さらに、新しい生命を産み、育てる母親に、父親に、また子育てにかかわる人たちに、育児・教育・保健などの事業に直接または間接にかかわる人たちに、とくに、食べものや飲みものを生産し、加工し、販売する業にかかわる人たちに、この事件の歴史的社会的意味を忘れないようにと、復刻版によせて、事後調査の会の一番の高齢者である丸山博が、あえて一文をここにしるす。

(上記の丸山先生の言葉は、いずれも『復刻版 14年目の訪問』(事後調査の会編 せせらぎ出版発行)に掲載されているものです)





大塚睦子さんのお話(第50回守る会全国総会挨拶)

大塚睦子さんご挨拶

 

皆さん、こんにちは。いろんなところでお目にかかっているかもしれませんが、今日はお呼びいただいたので短時間ですがお話しさせていただきます。

私は50年前36歳でした。その時に被害者のかたのお宅の訪問を始めました。丸山先生のところに行って勉強させて頂くはずだったのに「で、どうするの」「あなたはどう考えるの」と言われてばっかりで、半分「こんなところへ来るんじゃなかった」と帰りました。

「事実はどうなの」と先生から言われて「もう一回、森永のミルクの被害者といわれている生徒のお母さんに聞いてみよう」というのが訪問の発端ですね。

で、お母さんからその子の生育歴を聞いていたら、Iさんも被害者ですよと教えられました。Iさんはポリオでしたが、お父さんから「実は、うちの子はミルク中毒で入院していた。8/24に事件が発表されて、試験的に退院してきたが、入院中にポリオにかかってしまっていた」ところが森永は「ポリオとミルク中毒は関係ない」と主張して入院費用も打ち切られた。そういう話を聞かしてもらいました。そして、近所にこういう被害者がいるという情報もいただきました。

東大阪市の女の子を訪問しました。ちょうど下校してきた色白のかわいい女の子がいました。お父さんに言わせれば「その色白なのも問題だ」ということでした。お父さんも飲み残しのミルクを飲んで肝臓を悪くされたそうです。

お尋ねすると、ほとんどの家は中から「会社からですか」と返事される。私が「いえ、森永ミルクのことで勉強させてもらうために来たんです」と答えると、中から出てきて堰を切ったように話されるんです。その声を聞いてお父さんも飛んでこられる。親御さんの悲しみ苦しみ、許せないという気持ちですね。

どのお父さんもお母さんも「ほかの人はどうですか。うちの子みたいですか」とおっしゃいました。その質問があったので、「14年目の訪問」をまとめようということになったのです。

こうして保健師さんたちと68例集めました。丸山先生からはいつも「君らはすぐに68例だとか事例だとか言う。人間を事例と呼んで処理することはけしからん」と厳しく叱られました。

68人をまとめると共通していることが出てきました。その日は夜の10時ころまでかかって300冊作ったんです。でも、どこへ渡すとか全然考えていなかった。そこへ丸山先生がス~ッと来られて、「ご苦労さんでした。よくまとめられましたね」そして「で、君たちはこれをどうするの」と言われたんです。保健師や研究者もいましたが、なにか返事するとまたなにか言われるので、じっと小さくなっていまいた。「新聞記者が嗅ぎつけてるよ」とも言われました。(新妻さんの方に顔を向けて)ここにその記者さんがいらっしゃいますが(笑)

実は、大阪の保健師さんたちは圧力を受けていました。先輩の保健師に相談すると「あの事件はとっくに決着がついている。今更なにを」と叱られる。「政治的に決着のついているものを蒸し返してはいけない」と言われる。松尾さんという保健師さんは「あなたは将来性があるんだから、そういう調査に関わってはいけない」と言われました。

私は私的な時間を使っていたし、学校には何も言っていませんでしたが、ある教育委員会が校長会に「この調査に一切答えるな」と命じたため、ある養護教諭から「調査に回答したけれど封を切らずに返送して欲しい」と言われたことはあります。送り返しました。

とにかく、丸山博先生あっての調査、訪問でした。丸山先生は「衛生学は命を守る実践的学問だ」と定義されていました。これはぜひ覚えて帰ってください。「衛生学とは、生命・生活・生存を衛(まも)る実践的学問。生という字が付くものはみんな命に関わるものだから衛ればいい」とおっしゃっていた。日本の衛生学会において第一人者でありました。

もっとお話しさせていただきたいことはありますが、今日は時間の都合でここまでにしておきます。


大塚睦子さんと丸山教授の出会い、そして被害児の訪問
(機関紙ひかり掲載「事件発生50年のインタビュー記事」より)

「丸山先生のところへ勉強にいってみたら?」

(藪本)先生が丸山博先生の指導を受けられるようになったのは、お仕事の悩みを相談されたのがきっかけだとうかがいましたが、どんな悩みだったのですか」

(大塚)私は、日本で初めてできた肢体不自由学校の初代養護教諭でした。仕事といえば、予防注射の準備だとか健康診断の準備や介助、日々のちょっとした怪我の手当などでみんなは看護婦さんだと思っている。職員室に自分の机はないし、いつも下働きのようなことばかりで、養護教諭は教育職だと教えられてきたのに教育の仕事をする場面がないのです。

こんなはずではないと悩んでいたところ、日教組の教育研究集会に参加をすすめられ、養護学級での養護教諭の悩みを発表しました。そのときの分科会の助言者であった東京学芸大学の野尻与一先生に、「大阪には僕の一番尊敬する衛生学者の丸山先生がおられる。そこに勉強に行ったらどうか」と言われたんですよ

 

はじめは噛み合わなかった悩みの相談

(藪本)そして丸山先生のところへ行かれたんですね。どんなお話になったのですか。

(大塚)事前に私は悩みを書いて手紙を出したんです。先生はその手紙を手にして開口一番「あなたにとって壁とは何ですか」と聞かれるんです。そして「何がそんなに仕事をやりにくくしているの」と。でも、その〝何が〟がわからない。〝壁は何か〟などと考えたことがなかったんですね。困りましたね。話がかみあわなくて。だんだん場違いなところに来たのかと後悔しました。そこで、この先生は一体何が専門の先生なのかなと思い、先生の著書三分冊借りて帰ったのです。

これは乳児死亡研究をまとめたものでした。先生の指導で四人の保健婦が死亡した乳児の家庭を訪問し記録していました。その家庭の収入、子どもの数、家の広さ他、助産婦や医師も訪ねて、子どもの生まれた時や死んだ時の様子を聞いているのです。最後に訪問印象を保健婦が書いています。これを読むと、役所に出された死亡診断書の死因と実際とは違っているのではないかと思えてくるのです。のちにこれが森永被害児の訪問で役立ちました。

 

「君、それやったら?」で始まった被害者訪問

(藪本)丸山先生との話のなかでふと出た被害児のことが、その後の訪問につながっていますね。

(大塚)そう、一週間後に自分の学校の子どもたちの様子をまとめたものを持参して見せました。先生はそれを見ながら「これが〝実態〟ですか。実態ですね」と何度も念を押されるものだから、一人だけ在籍していたひ素ミルク中毒児を脳性まひ児に分類していることを話したのです。

そしたらねぇ、それまでソファに寝転んでいた先生が(先生はとても体が弱くて夕方になると横にならないと体がもたなかったのでした)パッと正座され、「君、それをやったら」と言われるのです。それをやったらといわれても何をやるのか私にはさっぱりわかりません。「何をするんですか」と聞くと「君は障害児の健康について勉強したいのでしょう。君が求める答えはここにあるよ」でも私は「森永の被害児は一人だけですから。・・私は脳性まひのことを調べたいのです」とおそるおそる言うと、「君は一人の命を大事だと思わないの。あの時一万人以上の子が被害にあってるんだからね。君の学校には一人しかいないかも知れないけど、ほかの中学校にはたくさんいるはずだよ。それはどうするの」って。そう言われても、私はほかの学校の子のことまでかかわることなど考えられないですからぐずぐずして黙っていました。

すると先生は「ひとりのことがわからないでどうしてたくさんの人のことがわかるのかね。物事はまず〝ひとり〟から始まるんだ」

そうおっしゃったきり黙ってしまわれたのです。時間はどんどん経つし先生と二人きりだから誰も助けてくれる人もなく、どうしたらよいかと脂汗が出る思いで考えましたね。幼いわが子を家に置いてきていますから早く帰りたいなあと思ってね。そのうち、はっと気づいたのです。私はこの先生に教えを乞いにきていながら、あれこれ言っていいのかな、と。まずは言われるとおりやってみて文句は後から言おう、そう思ったんです。もう夜の八時でした。

「では、やってみます」と答えました。そしたらね、先生はにっこりして、「あぁそう、・・で、どういう風にやるの?』とまた質問。困ってねぇ。「どういう風にやったらいいですか」と聞き返すと『そんなこと知らねえよ、君がやるんでしょ、君が勉強したいんでしょ』と突き放されてそれで考えたのが、はじめにお借りした本のことだったのです。「先生の乳児死亡研究にならって、もう一度親御さんから話をよく聞いてみます」というと「それがいいですね。事実が大事だからよく聞いてみるといいよ。」それでやっと家に帰れたのです

 

苦労しながら二十四件を訪問

(藪本)私は保健師なので家庭訪問はよくやりますが、当時の大塚先生はそういうことに慣れていらっしゃらなくて大変だったでしょうね。

(大塚)すごく抵抗がありました。養護教諭はふつう家庭訪問しませんから。きっかけとなったN君は、毎日お母さんが付き添って登校していたので、「ちょっとお話聞かせてほしいんだけど」と言うと、すごく喜ばれて、翌日〝五人委員会意見書〟を持ってこられました。お話を聞くとこれはもうドラマでしたね。「森永の社員がビスケットと五千円を二回持参してきた。その後ますます障害が重くなってきたので再度会社に言いに行ったら、事件はもうすんでいると言われてとりあってもらえなかった」とか医者からは「脳性まひや、治らん」と言われたり、保健婦からは「こんなに肌が黒いのは風呂に入れてやらないからだ」と言われたりして非常に腹が立った。そういうお話でした。その日、五人委員会意見書を借りて帰り夜中にかけて読みました。これは大変な事件なんだと思いました。

(藪本)やがて大阪府下一円の被害児宅の訪問をなさいますがご苦労も多かったでしょうね。

(大塚)丸山先生にN君のことを報告すると、「君の学校にいるということは同じような障害をもった被害児が他の中学校にもいるかもしれないことだ」と言われるのです。その後先生は大阪市内の中学に在籍する被害児の存在をつきとめられて約五十名の名簿を入手されたのです。(その五十名は保健婦さん達の自主研究サークルのメンバーが手分けして訪問しました)

私は先生が市内なら府下はまだなのだなと思って、大阪府下の百五十一校の中学校に往復はがきを出し、被害者の在籍の有無を問い合わせました。すると七十二校から返事がありその中に20名いることがわかりましたので、早速そのお宅に手紙を出して訪問の承諾を得ました。

北は高槻、寝屋川、南は貝塚、岸和田、そして東大阪など、土曜の午後に一軒、日曜は朝から子どもの弁当を作って、五歳と三歳の子ども二人を連れて家を出ました。高槻を訪問したときには、帰り道で夕立に遭い街道筋にたった一軒あった食堂で雨宿りさせてもらいましたが、なかなか止まず立ち往生でした。貝塚へ行ったときには、当時まだ開けていなくて田舎道を二十分あまり歩いて探したのですが、やっと探し当てたら留守で私も子どももがっかりして疲れがどっと来ましたね。

当時夫は病気療養中でしたから、私の収入だけでしたし、調査や旅費に思わぬ出費がかかるので経済的にも大変でした。二ヵ所の保育所の送り迎えも家事も全部私がやっていましたから、いつも時間に追われる生活であのころは常に睡眠不足でした。

 

『十四年目の訪問』発表にまつわる思い出

(藪本)そんなころ、ご長男が交通事故に遭われたとか聞きましたが。

(大塚)訪問が終わってすぐ家の改築をしていてやっと出来上がって引越し先から帰ってきて一週間目でした。息子がタクシーにはねられ入院をしたと知らせがあり、病院に駆けつけました。ちょうど訪問集をまとめる作業に入っていたので、私が出さないと冊子にできません。息子は頭を打っていて心配でしたが、ベッドの横の床頭台で訪問記録をまとめました。全部で二十四例でしたが、あの頃は “ガリ板”しかなくてカリカリ切りましたね」

(藪本)この“訪問記録”が一九六九年(昭和四十四年)十月十九日に新聞発表されて大きな反響をよんだのですね。

(大塚)発表の前夜は公表するかどうかをめぐってかなり激しい議論を全員でかわしました。夜十一時に解散となり、丸山先生はそれから朝日の記者に訪問記録を渡されたのです。それが翌日の各社の朝刊に載りました。とくに朝日新聞は訪問した全例を症状別に分類し見開き二ページに大々的に載せていて、驚きましたね。わずか三時間余りでやったのです。先日その記事を書いた新妻さんとお会いして当時の事を聞いたら、四人がかりで作業したとおっしゃっていました。

そして彼も森永事件を通して新聞記者としての生きる姿勢を学んだそうです。丸山先生から「君、この問題を新聞記者としてどうするの」といつも問われるので考えさせられた。それが記者活動の原点になったと言われていました。

 

森永事件題材に小説を

(藪本)丸山先生は本当に清潔で純粋な方だったのですね。

(大塚)ええ。人が一生のうちで心から「先生」と呼べる人に出会えるのはせいぜい一人か二人ではないでしょうか。それも大方の人は出会いがない場合が多いのではありませんか。そういう意味で私にとって先生は終生の師でしたね。ひとりの人間もおろそかに考えず大切に思っておられて、余計な名誉欲や損得などと本当に無縁な方でした。

(藪本)最後にこれからの守る会に望まれることをお聞かせください。

(大塚)みんなよく頑張ってここまでこられたと思っています。だけどともすれば風化しやすいのでまだまだいろいろな方面で宣伝がいるのではないでしょうか。

最近私は、民主主義文学会の支部に入れてもらって下手な小説を書いています。この事件をテーマに書いたところ全国誌に掲載してもらいました。『民主文学』二〇〇三年十一月号です。「漁火」という題で出しました。すると、事件があったことは知っていたがその中身は知らなかった、という感想があちこちからきました。

文学の世界でこうした社会問題が出てきたのは初めてだと、文学会幹事会でも高く評価していただきました。雪印乳業の低脂肪乳中毒事件、森永の教訓は全然生かされていません。それだけに森永事件は絶対に風化させてはいけないと思うのです。世界でも初めての救済事業も守る会のみなさんとの二人三脚でなりたっています。貴重な取り組みです。まだまだ頑張ってください。

(藪本)今日は本当にありがとうございました。

 

 

 

 

お話される大塚睦子さん

新妻義輔さんのお話(第50回守る会全国総会挨拶)

                                 新妻義輔さんご挨拶

新妻でございます。

みなさんやみなさんのお父さんお母さんと出会ったのは50年前です。196910月です。私は朝日新聞の大阪の社会部の記者でした。27歳でした。

その時代のキーワードは公害です。取材に行った大阪府立公衆衛生研究所で、「新妻さん、1955年に西日本を中心に130人が亡くなり12000人を超える被害者が出た森永ヒ素ミルク中毒事件は、後遺症はないと言われていたけれど、養護教諭、保健婦さん、大阪大学医学部の人たちが追跡したら後遺症はあるということがわかったらしいよ」私の取材の始まりでした。

被害者の方々に光を当てる、蘇らせる歴史的な「14年目の訪問」に関わった皆さんとの出会い、これが新聞記者としてひとりの人間としての私の生き方を決めました。

お母さんたちと出会って、お母さんたちがとぎれとぎれにつぶやいた言葉を今も忘れることができません。「私が悪かったんです。ミルクを飲ませると必死で嫌がったんです。でも無理やり飲ませて、緑の液を吐き出すこともあったんです。一年ほど経って『後遺症はないと』。障害は自分の子どもが持って生まれたものなんですかね」御自分を責めていました。

長いトンネルを歩き続けてきた被害者の皆さんに、14年たってやっと出口の光が見えたんです。みなさんのお父さんお母さん、調査に携わった人、支援の弁護士さんと取材でかわした言葉がいま蘇ってきます。「降り止まない雨はない」「明けない夜はない」「夜明けの前の闇が一番深い」そして決して忘れないことは「絶望のど真ん中で希望は生まれる」一言一言に私は生き抜く力をいただきました。

私の胸に刻まれているのは、大阪大学医学部の丸山博先生の一言でした。追跡調査の記者会見の席上で私は質問しました。「先生、追跡調査をした68人のうち何%に後遺症があったんですか」その瞬間、いつも本当に穏やかで優しい丸山先生の目が一瞬突き刺さってきたように感じました。そして丸山先生は私に問いただすように「あなたは今なんと言いましたか。何%と言いましたね。あなたは人間を%で見るんですか。10%なら問題で1人だったら問題ないとでも言うのですか。1人に苦しみ痛みがあれば、その人にとってすべてであります。100%なんです。それがわからずに、あなたは私のところへ足繁く通ってきて「弱者のために弱い人の立場に立つ新聞記者になる、そう言っていましたね。あなたは偽物です」と言いました。

一人一人が自分のために一番いい生き方をすることを邪魔することはできません。個人は取り替えがきかない掛け替えのない存在なんだということを、その時に思い知らされました。

締めくくりますけれど、2017年に日本は65歳以上が3500万人を超える異次元の高齢化社会になりました。守る会にとっても高齢期に入る被害者の救済にどう取り組むのかが大きな課題となってくることは間違いありません。人口減と高齢化に晒されている社会を正面から見つめて、それを踏まえて何をどうするのか、新たな挑戦のときです。

私の背中を押し続けている言葉で締めくくります。「努力は出来るかどうかでなく、やるかやらないかである。努力は裏切らない。転んだら立てばいい。闘いで決して負けない方法がある。あきらめなければ敗北はない」一人の外国人作家が書いていました。「明日世界が滅びるとしても、私はりんごの木を植え続ける」私はこの言葉が好きです。

森永ひ素ミルク中毒の被害者を守る会がますます重要になっている食の安全・安心の新たな地平を切り拓く先駆者であり続けることを、私は信じています。



機関紙ひかり掲載「2010年新春対談」より
(小畑理事長(当時・故人)による新妻さんとの対談)

(小畑)あけましておめでとうございます。

(新妻)おめでとうございます。

(小畑)昨年は「14年目の訪問」から40周年ということで記念の集いを開催したところ、おいでいただきましてありがとうございました。

(新妻)お招きいただきありがとうございました。40年ぶりにいろんな方とお会いして「40年続いていたのか」と実感しました。1969年当時は、ここまで続くとは思っていませんでしたから、敬服しました。

(小畑)皆様のご理解と守る会の親や被害者の努力で続いてきました。

(新妻)親から子へ、見事に引き継がれて続いている。こういう闘いは、そうはない。公害などの被害者救済の「新しい明日」を切り拓いたといえるでしょうね。グライダーにたとえれば、親が子を引っ張って、一定の高さになって手を離す。うまく飛び始めて、次は自らのエンジンで飛び始めている。

 守る会の人達は、こうしようと決めたら、周りの力を借りながらも、最終的には自分達でやる。他人に任せきりにせず、言ったことは責任をもって自分でやる。市民運動の鉄則が根幹で貫かれていますね。

 

(小畑)そういう親の姿勢を、時間はかかりましたが今は被害者が引き継いでいます。

 14年目の訪問当時は私達はまだ中学生だったので、新妻さんの書かれた記事を見ても他人事のような気がしていました。そのうち親達が運動を再開して実感していったのですが、あの記事はインパクトがありましたね。記事にするまでにはずいぶんご苦労されたのではないですか。

(新妻)当時、神戸から大阪の社会部へ来たばかりの27歳の記者でした。警察担当になって南署と東署の地域を回っていました。そのなかに府立公衆衛生研究所がありました。そこを訪ねては公害の問題などについて話をしていました。ある日「14年前のミルク中毒事件の調査をやってますよ」という情報を得ました。私はすぐさま手帳に「阪大」「丸山教授」「森永ひ素ミルク事件」と書き込みました。

 その日から、阪大の丸山研究室と高槻のご自宅に何度も足を運びました。丸山先生はなかなか調査の中身をしゃべってくれなかった。それでも足と労を惜しまず通い続けました。ついに明日が記者会見という日に調査結果をいただいた。その時、丸山先生から「新妻君、打ち上げ花火みたいに一発上げておしまいにしてはいけませんよ。書き続けることができますか」と言われた。即座に「僕は書き続けます」と返事をし、それから長く社内でこの事件の担当をしました。

(小畑)翌朝までの短時間に、よくあれだけの記事をまとめられましたね。

(新妻)朝日(新聞社)は、五感を使って現場に立っている記者が一番大事なんだという考えをもっている。また、「人間の命と生活と権利を守る」のが記者の役目だと教えられている。だから、丸山先生にいただいたデータを先輩に見せたら「これはすごいぞ」と言って、すぐに同僚やデスクが総動員で、徹底的に読み込んで重要性をつかみ、専門家に問い合わせをした。心を一つにした社内の力があったからあの日の報道ができた。

(小畑)若い記者の取ってきた記事なのに、すぐに大きな記事として扱われたのが以前から疑問だったのですが、お話を聞いてよくわかりました。

ところで、丸山先生はどういう方だったのですか。思い出を聞かせてください。

(新妻)丸山先生はいつも穏やかにトツトツと語りかけられる人でした。「なぜそう考えるの?」「どういう根拠?」と問いかけて、相手が自分で考え、自分で確かめ、自分で動くまで我慢強く待つ先生でした。

新聞記者として39年間に国内外で1万2~3千人の人と会ったが、この人はすごい、かなわない、自分の人間としての軽さを思い知らされる人は人間としての三つの要素をもっていた。「優しさ」と「誠実さ」と「謙虚さ」です。丸山先生はそれをもっている人だった。

モスクワでゴルバチョフが取り組んでいたペレストロイカを取材していた頃、丸山先生から手紙をいただきました。「歴史の転換点をしっかりと見届けなさい」とありました。どう考えたらいいのか迷ったときにしばしば丸山先生を思い浮かべた。39年間の記者生活の中でも、今の大学の教員生活でも、丸山先生は僕の心の中でずっと生き続けていますから、決して過去の「思い出」にはなっていません。

 

(小畑)被害者は高齢に差し掛かっています。親も多くが亡くなっています。私は、被害者の何を守るのかと問われれば、人としての尊厳を守ると答えています。

(新妻)私もそう思います。すべてが金、利益、という生き方が広まり、「勝ち組」「負け組」などという嫌な言葉まで生まれた。10人いれば10人の尊厳がある。命にまさるものはない。尊厳、自負、プライド、矜持(きょうじ)を守る。生きがいを感じられる暮らしをどう保障するか。人間の尊厳を保障することは、どんな時代になろうと絶対にゆずれない闘いだ。丸山先生は「行動する良心」だった。

(小畑)これからまさにそういうところを大事にしてやっていきたい。

(新妻)小畑さん達は、公害など様々な被害者救済活動の先駆者、パイオニアです。「新しい地平」を切り拓くために、どう闘うか、みんな見ています。これからも健康に気を付けて、急がず休まずがんばってください。

(小畑)これからもぜひ見守って下さい。今日はありがとうございました。

 

 

 

 

 

お話される新妻義輔さん

『14年目の訪問』扉の言葉(事後調査の会)

歩くことはおろか、ひとりでは立つことも座ることも出来ない13才の重度障害児が、乳児期に森永のひ素ミルクを飲んでいることがわかったとき、「ひょっとしたら、ほかにも?」と思って歩きはじめたのは、去年の秋のことでした。それが、この訪問の発端です。
14年前の夏、森永が、こともあろうに、乳児用のミルクにひ素の入った製品を出したため、1万何千人もの乳児が中毒し、100人以上もの子たちが『死亡した』ということは、世間一般の人々から「もう、すんだこと」のように忘れられようとしています。しかし、はたして、それは「もうすんだこと」なのでしょうか。とんでもありません。その事実をここに報告します。そしてまた、この事実をよそに、14年間、森永も関係官庁もこの子たちのために、何ひとつ、音沙汰さえもしなかったということも。それに、このたびの訪問は、文字通り、「14年目の訪問」になったのですが、この訪問が、それぞれの職務を持つ私たちの「自主的な行動」としてしか行いえなかったのもそれ故です。私たちは、そのすべてが「企業の利益優先」と無関係ではないと思います。でなければ、全く同じ種類の非道なことが、第一第二の水俣病で、農薬で、そしてカネミのライス・オイルで、こうまでくりかえされるのは、いったい何故でしょうか。
 力といっては、めいめいのぺしゃんこの財布と足しかない私たちが訪ね得たのは、ごらんの通りわずか68人の方々にすぎません。でも、何かの理由でとくに選んだわけでもないこの68人の方々が身をもって示している事実、そして、性こりもなく今もくりかえされている「事件」、この事実は、だれが私どもの声明をそこない、誰が守るのかを如実に示していると思います。それは、被害者だけの問題でなく、私たちみんなの問題であり、私たち一人一人の問題ではないでしょうか。
『14年目の訪問』復刻版

 

  ひかり協会ホームページもご覧ください

    http://www.hikari-k.or.jp/

 

● 60周年記念冊子(還暦記念誌)500円で頒布中。お申し込みは、06-6371-5304(守る会 平松)まで。どなたにでもお分けします。

 

 

 

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