50年記念誌  第2章

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①闘いの最前線に立って運動をリードした守る会の闘士 北村藤一氏

  (注:第2章に登場する人の年齢・役職等は取材当時のものです)

 

北村藤一氏 略歴

事件発生直後に結成された「森永ミルク被災者同盟全国協議会」(「全協」、一九五五~五六年)の事務局長等に就き、運動を組織し森永乳業・厚生省との交渉の先頭に立つ。「十四年目の訪問」後の一九六九年、「森永ミルク中毒のこどもを守る会」再結集時にただちに駆けつけ、近畿総局長・副理事長を歴任し、守る会の幹部としてひかり協会設立にむけて大きな力を発揮する。ひかり協会においては専務理事に就任し(一九七六~八五年)救済事業の確立のために力を尽くす。現在、兵庫県在住。八十九歳。

 

 

本記事

黎明期からの闘士

「私が腎臓を悪くした頃、北村さんがそのことを気にかけてくださってねえ、

ずいぶんお世話になったんですよ」

北村さんを訪問する車中、小畑芳三事務局次長は当時を思い出し感慨深げにつぶやいた。

北村藤一氏は昭和三十年事件発生直後から大阪の被害者親族を組織し、岡山の岡崎哲夫氏・黒川克己氏らと「森永ミルク被災者同盟全国協議会」(「全協」)を結成した当初からの“闘士”である。

当時から北村氏をよく知り、自身も後年代表裁判で原告団団長としてともに闘った岡田新次氏(現大阪府本部相談役)は「大変正義感の強い人で、あの頃の彼は家庭を犠牲にして、そうですね、運動というより闘争をしているという感じを受けましたね」

と語る。

 

苦悩の「全協」事務局長時代

「そうやなあ、あの頃はえらい苦労をしたわ」

現在八十九歳になる北村氏は遠くを見つめながらため息を漏らしたあと、隣にすわっている妻の圭子さんに視線を向けた。

「もう家のことはほったらかしで、ずっと外を駆けずり回っていましてねえ・・えらい目にあいました」

圭子さんも当時を思い出し、厳しい顔つきになる。

昭和四十三年頃に北村氏宅を訪問した大塚睦子氏が「北村さん、もう一度被災者同盟を再建してみる気持ちはありませんか」ときいた事がある。しかしその時北村氏は「とにかくあんな苦しい思い、悲しい思いをするのは絶対いやだ」と答えた。「私は大資本に負けたんだ。私は当時、転職しなければいけないところまで頑張ってやったつもりだったのに、最終的には負けてしまった。あんな思いは絶対にやりたくない」と語っている。

「丸山報告」後、再び闘いの先頭に

昭和三十年当時「全協」は八ヵ月にわたる闘いの幕を閉じたのであるが、森永本社での交渉の席上、北村氏は大野社長に断言した。「あなたらは日本の民主勢力を余りに過小評価している。それはあなたらが考えているほど弱くも甘くもないのだ。これを無視する会社側は後日必ず後悔する日がくるであろう」

この予言どおり、十四年後阪大の丸山博教授の衛生学者としての良心が再び事件を世の明るみに出し、絶望の淵にいた北村氏は再び闘いの舞台に立つことになるのである。

「長い暗いトンネルの中に一筋の光を差し込ませてくださったこれらの友の援助に支えられて、自らの手で自らの足でこの暗闇から這い出る努力をするだけでなく、この友の作業を妨げよう圧殺しようとする敵の勢力から友を守らなければならない」と、再度闘いに立ち上がった決意を述べている。

決意をした北村氏の動きはすばやく情熱的であった。十月三十日の「丸山報告」の後、十一月二十三日には大阪支部を結成し、十一月三十日には岡山市で開催された守る会第一回全国総会で「この守る会を自らの瞳のように愛し守ろう」と熱く呼びかけたことはよく知られている。この精神が守る会の誇るべき全国単一組織の精神として今日まで脈々と受け継がれているのである。

三者会談確認書締結の立役者

「全協」解散後も岡山では「森永ミルク中毒のこどもを守る会」が孤立無援ながらも組織の灯をともし続けていた。この取り組みと「丸山報告」が、全国の被害者親族の再結集とその後の世論に支えられた大運動の展開を可能にした。北村氏は大阪支部代表委員兼本部顧問としてここでも運動の中心メンバーとして活動するのである。

再結集した守る会は「全協」当時の轍を踏まぬよう慎重に方針討議を進めた。世論の後押しもあり、訴訟と不売買運動が順調に進んだ。そういう運動を背景に昭和四十八年九月、厚生省の山口政務次官から守る会に「森永に全面降伏させるからひとつ話し合いの場についてくれないか」と申し入れがありその後の確認書締結まで進むのであるが、このときも北村氏は重要な役割を果たしている。

当時副理事長として厚生省との交渉を担当していた北村氏のところへ山口次官が個人的な意向打診としてやってくる。北村氏は用心しながらも、あらゆる可能性を生かして恒久対策案実現の機会をとらえていこうという守る会方針に沿って決断をすることになる。

北村氏は常任理事であった細川一真氏(現守る会相談役)と「二人の個人的な責任で探ってみよう。もしだめであれば二人が責任をとり、守る会は安泰であるという形にしておこう」と決心して動いた。そして「恒久対策案を認めるか」「因果関係を認めるかどうか」に絞って森永と応酬し、ついに森永に「因果関係を認めます」と言わせ以後、公式の話し合いに入るのである。

このように北村氏が今日に至る救済事業の出発時点において大きな功績をあげたことはだれしもが認めるところである。

 

専務理事として協会運営の柱に

小畑次長は協会設立当時の様子を振り返り

「それまで森永は敵だと言って陣頭指揮を執ってきた北村さんが、確認書締結後は会社や厚生省と恒久救済のために協力し合うという立場に転換した。そしてその守る会方針を全国の被害者親族に訴えリードしていった。あのエネルギーには今思い出しても頭が下がる」

と言う。先の岡田氏も

「当時の守る会と協会の牽引車だった。今日の基礎を作るのに大きく貢献した人だった。アカンことはアカンとはっきり言う潔癖なところがあった。同時に面倒見のいい人でもあった」

と思い出す。

その後昭和五十一年から六十年の間協会の専務理事として今日の協会事業の基礎づくりに大きな力を発揮するのである。

夫婦ふたりの穏やかな日々

協会専務理事を引退してから二十年の年月が経つ。長年住み慣れた大阪市内を健康上の理由から二年前に離れ、現在は圭子さんと二人で隣県にある特別養護老人ホームで穏やかな日々を過ごしている。往時の〝眼光炯炯(けいけい)たる闘士〟の面影も今はなく、守る会や協会で活躍していた頃を思い出すことも近頃はほとんどないと語る。

しかし、現在の守る会と協会の基礎を創り上げるために激烈な闘争に明け暮れした功労者であることはまちがいない。深い感謝の気持ちを胸に抱きながら、閑静な住宅地のなかにあるホームをあとにした。

 

 

小畑芳三氏

「被害者の会」設立時から運動に参加。その後大阪府本部事務局長、全国本部事務局次長を経て二〇〇五年六月より理事長。原則的な発言と活動には定評がある。腎臓病悪化のため一九七七年より人工透析を続けている。

 

かつて師と仰いだ北村さん    小畑 芳三

 

「大阪に北村あり」といわれた時代がありました。「森永ミルク中毒のこどもを守る会」全国本部副理事長、北村藤一その人である。

協会設立当時の守る会「三羽ガラス」岡崎哲夫、黒川克己、北村藤一この三人は忘れることのできない親御さんたちです。とりわけ、北村さんは大阪に在住されていたこともあって十代のころから親交があり、小生にとっては師と仰いだ忘れることのできない親御さんの一人です。

あれは確か三者会談の確認書を締結した一ヵ月後のことでした。あまりの情勢の変化の速さに下部機関の守る会役員が狼狽していた時にお電話をしました。「裁判も取り下げ不買運動も中止するという方針で大丈夫でしょうか」北村氏は一喝。「そんな自信のないことでどうする。これからは確認書の中身を実行していくことこそ大切で、それこそが守る会の使命だ。将来君たち被害者諸君にこの事業を引き継いでもらわなければならない」とお叱りを受けたことが今でも私の脳裏をよぎります。

今回、八十九歳を迎えられた氏と久しぶりに面談する機会を得て私は感慨無量でした。面談を終えた帰り道、私の心の中にふとある名言が浮かびました。「老兵は死なず、ただ消え去るのみ」

 

 

編集委員会より

 

守る会の先輩はじめいろいろな方から協会設立当時の話をうかがっていると、「北村さん」という名が必ず出てきました。そして常に「矍鑠(かくしゃく)とした人だった」というのが共通した評でした。

今回小畑さんに同行してお住まいのホームを訪問しましたが、ご高齢のせいもあり当初予定していた対談形式は断念せざるを得ませんでした。結果この紙面のような記事となった次第です。しかしご夫妻から歓迎していただき、しばし有意義な時を共にすることができました。昔ながらの背筋をしゃんと伸ばした姿勢で元気そうなご様子であったことは写真からもおわかりいただけると思います。

今回の訪問の実現にご協力下さった方々に深くお礼申し上げます。

②孤立無援の被害者を健診して貴重な記録を残した協力専門家  松岡健一氏

 

松岡健一氏 略歴

 

昭和四十二年水島協同病院に正式に入局。その前後から森永ひ素ミルク中毒被害児の健診にたずさわる。この実績が丸山報告発表後の論争で大きな役割を果たすことになる。また倉敷公害訴訟では患者原告側主治医団の中心的役割を果たす。水島協同病院院長を経て現在名誉院長、岡山市内の看護専門学校校長にも就任。一方、協会では岡山県地域救済対策委員長、本部専門委員長を長年務める。岡山県在住、医師、七十七歳。

 

(本記事)

「健さんが担当せえ」で始まった三十五人の健診

(平松)私たちが子供のときから松岡先生にはお世話になっているのですが、先生が森永ひ素ミルク中毒事件にかかわることになったいきさつをうかがいたいと思います。

(松岡)昭和四十年、守る会(注:当時は岡山県だけに守る会組織が残っていた)が事件後十周年を記念して集まろうじゃないかといって岡山で十周年集会があったんですが、その時集まってきた子供の様子がどの子も弱々しくて痛ましかった。そこで守る会は翌年に精密健診実施の方針を出した。それを遠迫(えんさこ)先生のところに持ち込んだんです。で遠迫先生がこれは大変だということで水島協同病院の院長であった故佐藤先生にお願いされた。当時協同病院は水島の大気汚染問題にとりくんでいた。そこへ森永の被害者の問題が持ち込まれた。〝これも公害問題だから〟ということで取り組むこととなった。ちょうどそのころ私が入職した。当時私は健さんと呼ばれてたんですが「健さん、あんたが担当せえ」といわれて引き受けた。それから始めたのが三十五人の健診ですね。

ところが実際に始めてみると、ひ素中毒として考えられることで出来る検診をすべておこなったが、心身の発達の遅れた人もあれば一見まともに成長している人もあり、いったいどうまとめていいかが全然わからんのですよ。・・・で結局まとめる力も時間もなくそのままにしていた。そうこうするうちに水島地域で労災や交通事故が急増したこともあって、そちらに手がとられ、あっという間に月日が経ってしまい健診結果を2年間寝かせることになってしまった。

 

丸山報告後のたんねんな自主的健診

(平松)丸山先生が“十四年目の訪問”を発表されマスコミにも大きく取り上げられますが、一部の学者側から「丸山報告は臨床的裏づけがない」と批判されますね。それに対して先ほどの三十五人の健診結果が発表され、丸山報告を医学的に立証する有力な根拠となります。その後、守る会が全国的に再結集し、その第一回総会で〝人道的協力医療陣による自主的健診を〟という方針が打ち出されますね。

(松岡)守る会の第一回総会は、当時まだ木造だった岡山の総合福祉会館で開かれて、そこで初めて岡崎さん(当時守る会全国本部事務局長)と会いました。私は守る会の方針に応えた岡山民医連の一人として「森永ヒ素ミルク中毒後遺症調査研究班」に参加して健診活動をおこないました。

昭和四十五年一月から始めましたが、(健診して)結果として何が出てくるかわからん状態でした。それと、十四年間どこの医療機関へ行っても門前払いされてきたから被害者も親も完全に医療不信に陥ってるんですね。だからまずこれまでの話を聞くところから始まる。一人に三十分から一時間かけて丹念に話を聞きました。

実際やってみるとね、知的障害もずいぶん多いことがわかった。昭和四十五年五月三十一日に調査研究班の主催でシンポジウムを開き、被害児がかかえている心身の障害のすべてを明らかにしました。さあマスコミがどっとやってきてその対応も大変でした。

 

意見が割れた官制健診への参加

(平松)この健診の発表が丸山報告をさらに裏付けたものとして世論が高まり、厚生省や岡山県も無視できなくなるんですね。

(松岡)そうです。こういうことを受けて、いよいよ無視できなくなった厚生省と岡山県衛生部が官制の調査委員会をつくるんですね。ところが守る会を支援する側で、この調査委員会のおこなう官制健診に協力するかどうか、意見が割れました。岡崎さん達も判断に難渋しました。

当時いろんな人が「官制健診は、中立的よそおいをして最終的には被害者を抹殺する役割を果たす。だからボイコットすべきだ」と主張する。支援してくれていた労働組合なんかもこの主張に賛成し、守る会も困っていた。われわれも迷ったが、被害者や親のなかには「その健診を受けてみたい」という人も出現してきた。結局、県からの要請もあり、調査委員会の中では絶対少数派になるが(二十一名中四名)被害者の立場に立ってがんばるために入ろう、と決めた。多数派は確かにわれわれの意見を認めようとしないだろう。しかし調査委員会に入れとお呼びがかかっているのに逃げることはない。そう決意しました。

それと、“入って何をするのか”も考えた。そこで参考になったのが原子力委員会に参加していた物理学者の主張だった。つまり一つは運営の原則として“自主・民主・公開”を大切にしようということ。もう一つは、科学は真実を大切にするのだから安易に多数決で決めず、真実を探求するための科学論争をしようということ。だからたとえ少数派になってもわれわれの側に真実があれば困難を突破できるだろう。・・・とは言ってもその当時はいささか気が重かったですよ。

 

医学論争、内容的には勝利する

(平松)大変な論争をされたと聞いておりますが、苦労されたのではないですか。」

(松岡)その調査委員会のなかでは夜遅くまで、岡山の医学界の権威者たちとガンガンやりあった。相手側が「もうやめてくれ」と言ったこともある。当時の日本の中高校生の正常値データといったものがなくて双方が苦労したことも思い出す。最初かれらは、医者として知らないような結果が出てくるかもしれないとびくびくしていたが、それほどびっくりするほどのものは出てこなかった。その結果、「いまある病状は実際にはもうなくなっている過去の病気の残像だ」などとまとめたので「科学と良心の名において承認できない」と大反論した。最後には委員長グループが審議を強引に打ち切る一方で、「松岡君これくらいにしてくれや」と泣き落としにかかってきた。結局、論戦では勝ったが最終的に多数派がまとめてしまった」

それに対して私たち四人は「真実を明らかにするのは多数決ではない。科学論戦は多数決でつけるものではない。この調査委員会のまとめに異論がある。自分たちならこのようにまとめる」そういって少数意見も付して公表するように求めた。これにはねえ、委員長も岡山県当局も我々の意向を認めざるを得なくなった。でも誰一人真っ向から反対してきませんでした。あの時は内心ほっとしましたよ。そして、その後厚生省もこの調査委員会のまとめに対し「このまとめをもってただちに承認する結論としない」と表明した。

(平松)厚生省も官制の岡山健診のまとめは問題があると表明したわけですね。」

(松岡)その後の倉敷大気汚染公害訴訟(*コラム参照)でも、原告患者の主治医たちが居並ぶ呼吸器学会の権威者達と医学論争をしたけれど、そのときに私は「心配するな、森永事件でも勝ったんだ」と励ましたんですよ。そうして喘息患者や気管支炎患者にたいして「これは公害じゃない」という権威者達の論をくつがえすために、弁護団と主治医たちが水ももらさぬよう勉強しましたよ。

 

守る会運動があるから救済事業がつづく

(平松)守る会運動に長年協力していただいている松岡先生の目から見て、守る会への期待といったものもあるかと思うのですが。

(松岡)これまでもいろんな場で発言してきているのであらためて言うほどのこともないが、守る会運動があるからこそ救済事業があると思うんですね。ここまで継続させてきたことは素晴らしいことだし、これからも頑張ってほしい。それと、この事件の記録は今すぐには役立たないかも知れないが、医学史上大事な事実の記録が蓄積されているので大切にしてほしい。これは個人的な思いですが、重症被害者重視はもちろんまちがっていないんだけど軽症被害者も大切にして、運動の輪を広げてほしいと思います。

(平松)先生が取り組まれた他の公害事件と比べて私たちの事件の解決方法の特徴についてのお考えを聞かせてください。

(松岡)この森永事件の解決方法は、私のかかわってきた大気汚染公害と比べて〝被害者を中心としているところ〟が素晴らしい。大気汚染なら気管支喘息など4つの病気があるかないかを認定することが主だから、どうしても病気を見てしまうんです。森永の場合はまず被害者ありきの飲用認定なんですね。ひ素がどうだこうだでなく、まず飲んだ被害者がいる。で、その被害者がどうなっているのかに着目して、金銭支給だけでなく保健・医療・福祉・青年期教育など総合的に、個々に救済していることが素晴らしい。この伝統は大切にしてほしいですね。

(平松)お話をうかがって、ひかり協会ができるまでの専門家の方々の奮闘にたいして感謝の気持ちを新たにしました。守る会運動をさらに強化して救済事業をこれからも発展させていきたいと思います。今日は本当に貴重なお話を聞かせていただきありがとうございました。

 

(コラム)

倉敷公害訴訟とは

 

松岡先生は倉敷公害訴訟でも原告患者側に立ち、勝利的和解に大きな貢献をされた方として有名である。

倉敷公害訴訟は岡山県倉敷市の水島地域に製鉄・電力・石油化学工業などの大工場いわゆる水島コンビナートが建設され、操業したことによって生じた大気汚染公害被害に対して喘息患者などの公害被害者が裁判を起こしたものである。一九八三年に水島コンビナートの主要企業八社を相手として提訴され、その内容は被害の完全賠償と一定の基準以下に大気汚染物質の排出差し止めを求めたものであった。

被告企業側は呼吸器学会の権威者に「アレルギーやタバコ、老化が原因だ」と言わせて、因果関係を真っ向から否定した。これに対して原告側は主治医を中心として徹底的に反論を加え、一九九六年に全面的勝利解決を勝ち取っている。水島協同病院の多くの医師が患者の主治医として支援し、その中心的役割を果たされたのが松岡先生である

 

平松正夫

岡山県倉敷市生まれ。一九九一年以降守る会全国本部事務局長。協会設立以前より被害者運動に加わり、ひかり協会設立後は本部、大阪事務所職員として勤務。現在はひかり協会常任理事でもある。妻の幸子さんも被害者であり西近畿センター事務所に勤務する。

 

専門家集団の大切さ、改めて実感

 私は、岡山で被害を受け育った関係で、松岡先生には集団検診で何度も保健指導をしていただきました。

今回の対談では、当時の厚生省が実施した一九七一年の官制検診について詳しく語っていただきました。私はその官制検診の結果が歴史学習版の四十八頁のとおり「斉藤邦吉厚生大臣も参議院で『岡山検診は遺憾であった』と表明せざるを得なかったのである」をお話ししました。

今回の対談を通じて、三者会談成立前後の厳しい対立の時代から、協会設立後の前人未踏の救済事業に、一貫して協力された専門家集団の大切さを改めて実感しました。あわせて、事業と運動を引き継ぐ私たち被害者にとって、歴史学習版がどれほど大きなざいさんであるかの一端を痛感する機会となりました。

 

 

③「十四年目の訪問」を始めた養護教諭  大塚睦子氏

 

大塚睦子氏 略歴

広島県生まれ。看護婦を経て大阪府立堺養護学校で養護教諭として勤務。一九六八年から大阪大学医学部衛生学教室丸山博教授に師事し、森永ひ素ミルク中毒被害児訪問調査を行い「事後調査の会」として『十四年目の訪問』を発表。協会設立後も教育専門委員として活躍。現在、兵庫県在住、七十三歳。

 

(本記事)

「丸山先生のところへ勉強にいってみたら?」

(藪本)先生が丸山博先生の指導を受けられるようになったのは、お仕事の悩みを相談されたのがきっかけだとうかがいましたが、どんな悩みだったのですか」

(大塚)私は、日本で初めてできた肢体不自由学校の初代養護教諭でした。仕事といえば、予防注射の準備だとか健康診断の準備や介助、日々のちょっとした怪我の手当などでみんなは看護婦さんだと思っている。職員室に自分の机はないし、いつも下働きのようなことばかりで、養護教諭は教育職だと教えられてきたのに教育の仕事をする場面がないのです。

こんなはずではないと悩んでいたところ、日教組の教育研究集会に参加をすすめられ、養護学級での養護教諭の悩みを発表しました。そのときの分科会の助言者であった東京学芸大学の野尻与一先生に、「大阪には僕の一番尊敬する衛生学者の丸山先生がおられる。そこに勉強に行ったらどうか」と言われたんですよ

 

はじめは噛み合わなかった悩みの相談

(藪本)そして丸山先生のところへ行かれたんですね。どんなお話になったのですか。

(大塚)事前に私は悩みを書いて手紙を出したんです。先生はその手紙を手にして開口一番「あなたにとって壁とは何ですか」と聞かれるんです。そして「何がそんなに仕事をやりにくくしているの」と。でも、その〝何が〟がわからない。〝壁は何か〟などと考えたことがなかったんですね。困りましたね。話がかみあわなくて。だんだん場違いなところに来たのかと後悔しました。そこで、この先生は一体何が専門の先生なのかなと思い、先生の著書三分冊借りて帰ったのです。

これは乳児死亡研究をまとめたものでした。先生の指導で四人の保健婦が死亡した乳児の家庭を訪問し記録していました。その家庭の収入、子どもの数、家の広さ他、助産婦や医師も訪ねて、子どもの生まれた時や死んだ時の様子を聞いているのです。最後に訪問印象を保健婦が書いています。これを読むと、役所に出された死亡診断書の死因と実際とは違っているのではないかと思えてくるのです。のちにこれが森永被害児の訪問で役立ちました。

 

「君、それやったら?」で始まった被害者訪問

(藪本)丸山先生との話のなかでふと出た被害児のことが、その後の訪問につながっていますね。

(大塚)そう、一週間後に自分の学校の子どもたちの様子をまとめたものを持参して見せました。先生はそれを見ながら「これが〝実態〟ですか。実態ですね」と何度も念を押されるものだから、一人だけ在籍していたひ素ミルク中毒児を脳性まひ児に分類していることを話したのです。

そしたらねぇ、それまでソファに寝転んでいた先生が(先生はとても体が弱くて夕方になると横にならないと体がもたなかったのでした)パッと正座され、「君、それをやったら」と言われるのです。それをやったらといわれても何をやるのか私にはさっぱりわかりません。「何をするんですか」と聞くと「君は障害児の健康について勉強したいのでしょう。君が求める答えはここにあるよ」でも私は「森永の被害児は一人だけですから。・・私は脳性まひのことを調べたいのです」とおそるおそる言うと、「君は一人の命を大事だと思わないの。あの時一万人以上の子が被害にあってるんだからね。君の学校には一人しかいないかも知れないけど、ほかの中学校にはたくさんいるはずだよ。それはどうするの」って。そう言われても、私はほかの学校の子のことまでかかわることなど考えられないですからぐずぐずして黙っていました。

すると先生は「ひとりのことがわからないでどうしてたくさんの人のことがわかるのかね。物事はまず〝ひとり〟から始まるんだ」

そうおっしゃったきり黙ってしまわれたのです。時間はどんどん経つし先生と二人きりだから誰も助けてくれる人もなく、どうしたらよいかと脂汗が出る思いで考えましたね。幼いわが子を家に置いてきていますから早く帰りたいなあと思ってね。そのうち、はっと気づいたのです。私はこの先生に教えを乞いにきていながら、あれこれ言っていいのかな、と。まずは言われるとおりやってみて文句は後から言おう、そう思ったんです。もう夜の八時でした。

「では、やってみます」と答えました。そしたらね、先生はにっこりして、「あぁそう、・・で、どういう風にやるの?』とまた質問。困ってねぇ。「どういう風にやったらいいですか」と聞き返すと『そんなこと知らねえよ、君がやるんでしょ、君が勉強したいんでしょ』と突き放されてそれで考えたのが、はじめにお借りした本のことだったのです。「先生の乳児死亡研究にならって、もう一度親御さんから話をよく聞いてみます」というと「それがいいですね。事実が大事だからよく聞いてみるといいよ。」それでやっと家に帰れたのです

 

苦労しながら二十四件を訪問

(藪本)私は保健師なので家庭訪問はよくやりますが、当時の大塚先生はそういうことに慣れていらっしゃらなくて大変だったでしょうね。

(大塚)すごく抵抗がありました。養護教諭はふつう家庭訪問しませんから。きっかけとなったN君は、毎日お母さんが付き添って登校していたので、「ちょっとお話聞かせてほしいんだけど」と言うと、すごく喜ばれて、翌日〝五人委員会意見書〟を持ってこられました。お話を聞くとこれはもうドラマでしたね。「森永の社員がビスケットと五千円を二回持参してきた。その後ますます障害が重くなってきたので再度会社に言いに行ったら、事件はもうすんでいると言われてとりあってもらえなかった」とか医者からは「脳性まひや、治らん」と言われたり、保健婦からは「こんなに肌が黒いのは風呂に入れてやらないからだ」と言われたりして非常に腹が立った。そういうお話でした。その日、五人委員会意見書を借りて帰り夜中にかけて読みました。これは大変な事件なんだと思いました。

(藪本)やがて大阪府下一円の被害児宅の訪問をなさいますがご苦労も多かったでしょうね。

(大塚)丸山先生にN君のことを報告すると、「君の学校にいるということは同じような障害をもった被害児が他の中学校にもいるかもしれないことだ」と言われるのです。その後先生は大阪市内の中学に在籍する被害児の存在をつきとめられて約五十名の名簿を入手されたのです。(その五十名は保健婦さん達の自主研究サークルのメンバーが手分けして訪問しました)

私は先生が市内なら府下はまだなのだなと思って、大阪府下の百五十一校の中学校に往復はがきを出し、被害者の在籍の有無を問い合わせました。すると七十二校から返事がありその中に20名いることがわかりましたので、早速そのお宅に手紙を出して訪問の承諾を得ました。

北は高槻、寝屋川、南は貝塚、岸和田、そして東大阪など、土曜の午後に一軒、日曜は朝から子どもの弁当を作って、五歳と三歳の子ども二人を連れて家を出ました。高槻を訪問したときには、帰り道で夕立に遭い街道筋にたった一軒あった食堂で雨宿りさせてもらいましたが、なかなか止まず立ち往生でした。貝塚へ行ったときには、当時まだ開けていなくて田舎道を二十分あまり歩いて探したのですが、やっと探し当てたら留守で私も子どももがっかりして疲れがどっと来ましたね。

当時夫は病気療養中でしたから、私の収入だけでしたし、調査や旅費に思わぬ出費がかかるので経済的にも大変でした。二ヵ所の保育所の送り迎えも家事も全部私がやっていましたから、いつも時間に追われる生活であのころは常に睡眠不足でした。

 

『十四年目の訪問』発表にまつわる思い出

(藪本)そんなころ、ご長男が交通事故に遭われたとか聞きましたが。

(大塚)訪問が終わってすぐ家の改築をしていてやっと出来上がって引越し先から帰ってきて一週間目でした。息子がタクシーにはねられ入院をしたと知らせがあり、病院に駆けつけました。ちょうど訪問集をまとめる作業に入っていたので、私が出さないと冊子にできません。息子は頭を打っていて心配でしたが、ベッドの横の床頭台で訪問記録をまとめました。全部で二十四例でしたが、あの頃は “ガリ板”しかなくてカリカリ切りましたね」

(藪本)この“訪問記録”が一九六九年(昭和四十四年)十月十九日に新聞発表されて大きな反響をよんだのですね。

(大塚)発表の前夜は公表するかどうかをめぐってかなり激しい議論を全員でかわしました。夜十一時に解散となり、丸山先生はそれから朝日の記者に訪問記録を渡されたのです。それが翌日の各社の朝刊に載りました。とくに朝日新聞は訪問した全例を症状別に分類し見開き二ページに大々的に載せていて、驚きましたね。わずか三時間余りでやったのです。先日その記事を書いた新妻さんとお会いして当時の事を聞いたら、四人がかりで作業したとおっしゃっていました。

そして彼も森永事件を通して新聞記者としての生きる姿勢を学んだそうです。丸山先生から「君、この問題を新聞記者としてどうするの」といつも問われるので考えさせられた。それが記者活動の原点になったと言われていました。

 

森永事件題材に小説を

(藪本)丸山先生は本当に清潔で純粋な方だったのですね。

(大塚)ええ。人が一生のうちで心から「先生」と呼べる人に出会えるのはせいぜい一人か二人ではないでしょうか。それも大方の人は出会いがない場合が多いのではありませんか。そういう意味で私にとって先生は終生の師でしたね。ひとりの人間もおろそかに考えず大切に思っておられて、余計な名誉欲や損得などと本当に無縁な方でした。

(藪本)最後にこれからの守る会に望まれることをお聞かせください。

(大塚)みんなよく頑張ってここまでこられたと思っています。だけどともすれば風化しやすいのでまだまだいろいろな方面で宣伝がいるのではないでしょうか。

最近私は、民主主義文学会の支部に入れてもらって下手な小説を書いています。この事件をテーマに書いたところ全国誌に掲載してもらいました。『民主文学』二〇〇三年十一月号です。「漁火」という題で出しました。すると、事件があったことは知っていたがその中身は知らなかった、という感想があちこちからきました。

文学の世界でこうした社会問題が出てきたのは初めてだと、文学会幹事会でも高く評価していただきました。雪印乳業の低脂肪乳中毒事件、森永の教訓は全然生かされていません。それだけに森永事件は絶対に風化させてはいけないと思うのです。世界でも初めての救済事業も守る会のみなさんとの二人三脚でなりたっています。貴重な取り組みです。まだまだ頑張ってください。

(藪本)今日は本当にありがとうございました。

 

 

藪本弘子氏

守る会和歌山県本部役員、全国本部常任理事を経て二〇〇二年以降事務局次長。高野山のふもと高野口町で保健師として長年勤務している。

籔本弘子氏

守る会和歌山県本部役員、全国本部常任理事を経て二〇〇二年以降事務局次長。高野山のふもと高野口町で保健師として長年勤務している。

 

 

こんなにも情熱的に

今回お会いした大塚先生は、年齢より若々しく、定年退職後も活動的で、エネルギーにあふれた方という印象でした。被害者訪問当時の状況や丸山先生との出会いなどを伺い、こんなにも情熱的に、私たち被害者のためにかかわってくださった専門家の先生方があってこその今ということを痛感しました。

 

④ヒューマニズムあふれる被害者弁護団団長  中坊公平氏

 

中坊公平氏 略歴

京都生まれ。一九五七年弁護士開業。一九七三年森永ミルク中毒被害者弁護団長。その後も、豊田商事破産管財人、香川県豊島産廃問題で公害調停の弁護団長、公的不良債権回収機関・整理回収機構の初代社長、小渕内閣特別顧問等を務める。その間、大阪弁護士会会長、近畿弁護士会連合理事長、日弁連会長を歴任。ひかり協会では元理事、現評議員。京都市在住七十五歳。

 

(本記事)

社会に出て学び取った「現場に神宿る」

(竹森) いろいろな所で森永事件を話していただき、ありがとうございます。森永事件に出会われる以前の先生のことについておうかがいしたいのですが。

(中坊) 私は生まれつき虚弱な体だったんですよ。頭の方もね、「三たす三は?」と問われても「九はだめでもせめて五か七なら近いから堪忍してくれるんやないか」(笑)と考えるような、きっちりが苦手な子だったんですわ。それで先生から「中坊君、それではいかんのや」とよく叱られました。学校教育ではうまくいかなかった。だから今でも日本の学校教育は画一的で間違っていると思いますね。もっと人それぞれの潜在能力を引き出して伸ばすことを目的にしてほしいですね。

やがて、ちょうど森永の事件があった一九五五年に司法修習生として一応社会人となりました。それでも月給もらって生活している間はまだ社会はわからなかった。ほんまにわかったのは四年後に自分で事務所を開いてからですね。仕事などがうまくいかない時に、なぜ自分はうまくいかないのか自問自答してみると「世の中のありとあらゆる現象は結果であって、それにはすべて原因がある」ということに気がついた。

それからの私は社会の現場において常に「何故だ?」と考えるようになった。本の中にも偉い先生の所にも答えはない、現場の中にすべての答えがある、「現場に神宿る」ということがわかった。同時に、自分の目で見えること・耳で聞けること・経験したことだけで判断せず、より高い視点で眼界を広く視野を遠くして見るという姿勢で現場を直視することが大事だとわかった。森永事件にかかわるまでにこれだけは身についていた。

 

「子どもに対する犯罪に右も左もない」と一喝され

(竹森) そして森永の事件に関わられるわけですが、そのいきさつについてお聞かせください。

(中坊) 伊多波さん(弁護団副団長、現ひかり協会常任理事)から、「事件の記録を届けるから読んどいてほしい」と言われましてね。でも最初は受けんとこうと思っていた。何でかと言いますと、私は大企業や公共団体から顧問料をもらって生活をする弁護士だった。それなのに森永事件で被害者の側に立つと大企業や国を相手にやりあうことになる。そうすると、これまで私の依頼者だった大企業から「自分らと反対側の味方をしよった」と言われる。それでは困る。

もうひとつ、森永事件に関わっているのは「青法協」という左翼の弁護士が多かった。せっかく弁護士活動も軌道に乗って生活できるようになっていたのに左翼と思われてはそれを棒に振ることになる、と考えて断るつもりだった。

でも、ちょっと断りにくかったので、一月の中頃だったかな「こういう事件の依頼を受けてるんやけど・・」と親父の所に相談に行った。多分すぐに「そんなもん手伝うな」と言ってくれるやろう、そしたら断りやすい、そう考えてた。

ところが、父親は「公平、父ちゃんはな、こんなことでくよくよ悩んで父ちゃんとこへ相談に来るような、そんな情けない子に育てた覚えはない。子どもに対する犯罪に、そもそも右も左もないやないか。お前はちっちゃい時から出来が悪く、ほんまに人様のお役に立ったことがあったか。お前みたいな人間でもお役に立てますと言うてもらってるんなら、手伝いに行くのは当たり前やないか」と一喝ですわ。この3年後に父親は亡くなってますからこれが父の遺言みたいなもんですね。父は弁護士になる前に小学校の先生をしていましたから、子どもと聞いただけで特に感じるところもあったんでしょうね。

 

被害者訪問で聞いた母親たちの自責の叫び

(竹森) そして弁護団長を引き受けられ、実際に被害者の家庭を訪問されますね。

(中坊) 最初は被害者の親たちと一緒にビラまいたり、団交したり、集会に出たりしていたんですが、その時に「なかには二十日間くらいしか飲んでない子もいる。そんな短期間でこんなに重い障害が残るのかなあ」と、ふと疑問を持ったんですね。弁護団長やっててそれは具合が悪いですね。でも自分の基本にある現場主義が首をもたげてきて、「いま集会とかで見ているこれがほんまに現場かな。自分は被害児の生活を知っているのだろうか」と疑ったわけです。

伊多波さんに相談したら「それはええところに気がつかれた。自分も一緒に行きます」司法修習生だった金子君(現ひかり協会理事)も「弁当持ちします」と言ってついてきた。土曜の半分と日曜祝日を使って回りました。この半年の体験をもとに五月三十一日の冒頭陳述を書きました。心の底からの思いを込めて書きました。人生の中で一番しっかり書いたと思うね。だから、いっさい書面を見なくても一言半句間違えずに陳述できました。

(冒頭陳述書を取り出して読む)「・・私は原告弁護団長を引き受けて以来、数多くの被害者のお宅を一軒一軒訪問して巡りました。そしてそこで多くの母親たちに面会しました。その母親が私に一番強く訴えたことは、それは意外にも被告森永に対する怒りではありませんでした。その怒りより前に、〝我の我が手で自分の子に毒物を飲ませたという自責の叫び〟でございました。…生後八ヶ月にもなりますと赤ちゃんは既にその意思で舌をまいたり手で払いのけたりして、この毒入りのミルクを避けようとしたそうであります。しかし母親はそれをなんとかあやして無理にミルクを飲ませ続けたのです。その結果がますます砒素中毒がひどくなり現在の悲惨な状況が続いてきたのであります。この十八年間被害者が毎日苦しむ有様を見た母親が自責の念に駆られたのは当然でございます。・・この母親たちのこの自責の念というものは一体どこから出ているのでしょうか、この母親が何故こういう叫びをするのか、これは自分の子供が自分によせておる絶対的な信頼を裏切ったことに対する自責の念なのです・・」(一部抜粋)

 

人類が二度と起こしてはいけない事件―原爆被害と同じ

(中坊) 人類は他の動物と違って、生まれてからも全面的に親の世話にならないと生きていけない。自分で立てない、食物を得られない時間が長い。人類というものが生存し続けるために、赤ちゃんは無条件に父や母を信じて生きていくというのが人類の大きな特徴。これを裏切らせる行為を強いた、これが森永ひ素ミルク中毒事件の本質ですね。

(竹森) 赤ちゃんが手で払いのけても飲ませ続けたという点ですね。

(中坊) たくさんの赤ちゃんがしたと言うんだけど本当にそうしたかどうかはわからない。しかし母親は自分が悪かったと思っているからそういう言葉で表しているんだと思う。自責の念を持つことが唯一の救いだった。無理に自分が悪かったと思わざるを得ない。私はこれほど残酷な事件はないと思う。本当は自分が悪いわけじゃないのに、悪いと思い込むことが救いだと・・これはやっぱり残酷。他の公害事件ともちょっと違う性格の問題があると思う。人類に対する問題、世界でひとつしかないし二度と起こしてはいけないという点で、これは原爆被害と同じではないか。

このように森永事件も奥深い問題としてとらえるべきだ。そういう深いところで認識しておれば、時流に流されたり風化したりしないと思う。

(竹森) 本当に深いところでわかることが大切ですね。海でも表面は変化しても深海の流れは変わらないといいます。守る会でも、事件が発生して五十年ですから風化を防ぐことがますます大切だと考えています。

(中坊) 現場に根ざして深いところで理解しておくことが守る会の運動でも大切だと思いますよ。

ある親が「誰が憎いと言って世間が一番憎い」と言った。世間の冷たさが悲しい。私は世間や世論というものは時の流れで変わるものだから、冷たいもんだと思いますよ。空白のように見えた十四年の間に世間の冷たさがわかり、耐えることを知った、だからこそ余計に組織の大切さがわかったという意味ある十四年間だったかもしれない。そう考えると、十四年の暗黒があったからこそ被害者はより深い認識ができて、守る会やひかり協会がこれだけ長い間続いていると考えられるのではないか。

 

仲間同士の助け合いがすごいと思うね

(竹森) 被害者活動をご覧になって何かひと言いただけますでしょうか。

(中坊) 守る会の中心が親から被害者本人へきちんと引き継がれた。これに一番ほっとしている。最初、これは親だけの運動で終わるかなと心配していた。でも、被害者達はたまたま同じミルクを飲んだというだけで障害をもってない人も一緒にやっている。

(竹森) 高松へ行かれて、被害者にお話されましたね

(中坊) あの時、車で着いたらね、皆さんが会場の入り口まで両脇に並んで花道をつくってくれて歓迎してくれた。感激しましたねえ。

京都でもお話に行った時、役員の方が障害のある仲間のことを気遣っていましたね。この仲間同士の助け合いがすごいと思うね。呼んでいただければまた喜んで行きますよ。

(竹森) 全国の仲間は「乳兄弟(ちきょうだい)」としてつながりも強く、健診を受けようとか健康づくりをしようと助け合っています。これからも私たちを温かく見守ってください。

 

 

(コラム)

森永裁判の特徴

中坊公平氏は「二十七年目を迎えて森永ひ素ミルク中毒事件を考えるシンポジウム(一九八二年)」席上で「森永裁判の特徴」と題して、要旨次のように述べられている。

「特徴の一つは、守る会の代表裁判であったということです。訴訟上の原告は個人となっているが、訴訟は救済を実現する手段ですから実質的な事件の依頼者は守る会となっています。現在の裁判機構では認められませんが、ここにこの事件の難しさがあり、また特徴があります。二番目の特徴は、この裁判は金銭の支払いを目的としていなかったことです。請求は一千万円と書いていますが、決して一人ひとりに一千万円くれということではなかったのです。守る会からは一円にせよとの意見もあった程です。この点で裁判の形態と実質が異なっていました。また、裁判である以上判決を求めます。しかし、この裁判は判決の獲得のみを目的としたのではなく、加害者の欺瞞性を暴露することにありました。ここに形式的に求めていることと、実際に求めていることの相違がありました。これが三番目の特徴です」

 

 

竹森純子氏略歴

京都生まれ。京都府本部役員を経て、一九九九年から守る会全国本部常任理事。嵯峨御流華道の師範としての活動にも多忙。

 

 

「いのち」をつなぐ運動を引き継いで

中坊先生にお目にかかるのは五年ぶりです。五年前は東近畿ブロック合同の取り組みにおいでいただきました。その日の約百三十人の参加者全員に行き渡るお土産まで頂戴したことを覚えています。その時は、先生に私たちのことを聞いてもらいたい、被害者の「今」を見てもらいたいという企画でした。今回は先生のお話をたっぷりと伺うことができました。先生の「原点」だと言っておられる私たちの事件のことを、今も見守ってくださっていることが実感できました。

「あなたたちのしていることは、風化してしまう軽々しいものではない。もっと深い意味を持つ、人間の本質に根ざした活動だということを自覚して続けていって欲しい」とのお言葉。前人未踏の厳しい道程がまだまだ続きますが、勇気と知恵をいただきました。ありがとうございました

 

 

⑤事件発生当時から今日までを知る森永乳業顧問 菊地孝生氏

 

菊地孝生氏 略歴

 

昭和三十年森永乳業入社。「丸山報告」以降につくられた会社渉外部に配属されて、守る会との交渉に立ち会う。協会設立後も渉外部長、常務、専務を歴任し救済事業に尽力する。現在、森永乳業特別顧問、関連会社「クリニコ」(医療食、医薬品等の製造・販売会社)会長、ひかり協会常任理事の重責を果たす。東京都在住、七十二歳

 

(本記事)

昭和三十年の夏、まさに阿鼻叫喚でした…。

(中島)菊地さんはちょうど事件があった昭和三十年に森永乳業に入社されたそうですね

(菊地) はい。入社まもなくこの事件に立ち会うのですが、今でも夢にみるくらい、当時の記憶がまざまざとよみがえってきます。

八月二十四日に岡山大学の浜本教授による新聞発表がありました。すぐに会社をあげて対応することになり、社員が現地に派遣されたのですが、私は大阪大学担当を命じられました。

当時まだ木造の建物だった阪大の診察室から廊下まで赤ちゃんとそのご両親があふれかえり、大変な騒ぎでした。下痢はする、熱はある、お腹の痛い赤ちゃんもいる。赤ちゃんですから一人が泣くと連鎖反応を起こしてみんな泣き始める。残暑厳しい頃で、まさに阿鼻叫喚(あびきょうかん)でしたね。徳島工場で生産されたもの以外の製品でも他社のものでも、とにかくミルクを飲んでいる赤ちゃんに何らかの症状があれば心配でみんな駆け込んでこられていました。赤ちゃんたちの泣き声とご両親の方々の沈痛な面持ちが思い出される、本当に痛ましい記憶です。

当時は赤ちゃんでいらした中島さんにも大変なご迷惑をおかけしました。改めてお詫びいたします。

 

もっと早い時期に救済事業を始めるべきだった

(中島)その頃の病院での騒ぎの様子というのは初めて聞きました。

やがてその十四年後に丸山報告が出され現地交渉が始まりますが…

(菊地)発表された「十四年目の訪問」を見て、会社の一部には「時期から見てあのミルクを飲んだはずのない子が数名含まれている。だからこれは科学的におかしい報告だ」という声もありました。しかしあの報告を見てわれわれが気づかねばならなかったのは、〝一歳に満たない赤ちゃんにとって主食であるミルクにひ素が入っていて、それを飲んだら何らかの影響があるはずだ。そう考えるのが常識じゃないか。それが丸山先生が鳴らした警鐘だし、世間もそれを支持する立場に立っている〟そのことだったのです。われわれメーカーや行政がそのことにもっと早く思いが至っていれば、丸山報告から五年もかかることなく、もっと早い時期からスムーズに救済事業が始められたのではないかと思っています。

一方、刑事裁判では、昭和三十八年の徳島地裁判決では工場長、製造課長ともに無罪でしたが、その後、高松高裁、最高裁を経て、昭和四十八年の徳島地裁差し戻し審の判決では、工場長は無罪でしたが製造課長は有罪というものでした。その当時に、最高裁の判事だった方が「判決というものは、その時代その時代の正義を代弁する」と言ったことがあります。十数年の間に社会の見方が変わっていたのです。会社はそのことに気づかず、マスコミや世論を敵に回し、的確な社会適応が出来なかったものですから、現地交渉はもみにもめました。

「せめてクリスマス前に決着を」と山口さんが

(中島)現地ごとに会社との交渉が繰り返され、やがて全国本部と本社が交渉を進め、そしていよいよ三者会談が始まります。

(菊地)当時の守る会の幹部であった北村さんや黒川さん、細川先生が、「被害者を一刻も早く救済したい。そのためにはあらゆる方法を追求したい」とおっしゃった。そうしてわれわれや厚生省と何度も何度も話し合いをもたれた。会社も渉外部をつくって対応したり、「M19委員会」(丸山報告の新聞発表が十月十九日だった)という社内組織で対策を検討したり、おおわらわの毎日でした。厚生省の政務次官をされていた山口敏夫さんや厚生省の三浦課長(現ひかり協会副理事長)・近課長補佐(同理事)・大塚事務官(前厚労省事務次官)など理解ある方々も解決のため大変な苦労をなさいました。

こういう中で会社の大野勇社長(当時)も「因果関係を認める立場に立つ」と約束することになります。これには会社の弁護士から「裁判途中にそんなことを言ってもらっちゃ困る」という声があがりましたが、企業は責任ある社会対応をしなくちゃならないという社長自らの決断だったと思います。それを受けて守る会のほうでも被害者弁護団を説得して、裁判を取り下げていただいた。

そして昭和四十八年も押し詰まったころ、山口さんが「被害者はもう十八歳にもなっている。せめてクリスマス前に決着をつけようじゃないか」と言われ、三者会談確認書が締結されました。ですから確認書の日付は十二月二十三日になっています。

それから急ピッチでひかり協会の発足に向けて動きます。先の大塚さんが社団法人でなく公益法人にしようと提案され、そうなりました。大塚さんが寄附行為の原案を作ってきてそれをみんなで論議するなどということを何度も徹夜でやりました。そしてようやく翌年4月に協会を発足させることができました。

 

重層的な社内教育。取締役会の半数が元担当者

(中島)事件の教訓を引き継ぎ、風化を防ぐ取り組みを社内でやっていただいていると聞いておりますが、実際にはどうなのでしょうか。

(菊地)「本当の真実が、時間の経過とともに、こうあってほしいという真実に変わっていく」ということは人間社会においてありがちなものです。そんなことがこの事件に関して社内で起こらないように、語り継いでいきたい。

具体的には、まず新入社員対象の研修の場で渉外部長が事実関係を説明します。そのあと私がその事実をどう見てどう考えるのかを話します。二時間半くらいかけます。50年前という半世紀も前の出来事ですが、私が話しますとみんないい意味でのショックを受けてくれます。ですから研修後のレポートでは「自分達が次の世代に引き継いでいかねばならない」、「二度とこのような事件を起こしてはならない」、「安全こそ食品会社としての責任だ」といったことを書きますね。さらに昇格試験や課長研修の時でも話しますし、取締役会でも随時行ないます。関連会社三十八社、グループ全体でも風化しないよう、また社会的責任をどう果たすのかについてきちんと身につけるよう説明しています。どこでも真摯に受け止めますね。

さきほど大野勇社長の決断を申し上げましたが、その後も社長は「会社だけの事件でなく大野家の事件でもある」といって、子息の大野晃さん(現会長)にもきちんと責任を果たすように引き継がれた。現在の取締役会八名中、社長、専務、常務二名の計四名がかつて渉外部や先のM19委員会のメンバーにいましたから、救済事業をまさに会社経営の中軸に据えていると申しあげてよいでしょう。

守る会幹部のみなさんのリーダーシップ発揮を期待します

(中島)今後とも社内で事件が風化することを防ぎ、社会的責任を果たしていただきたいと思います。

菊地さんは六年前からひかり協会の理事、常任理事をされていますが、協会や守る会への感想とか期待がありましたらお聞かせ願いますか。

(菊地)協会の設立前後から、会社は責任を取るために理事会の中に入るべきだという声もあったが、時期尚早という声もあり入ることにはなりませんでした。先年、救済事業に「三者会談」の一員として責任を果たすため、また財源上の問題で会社として責任を持つためにも理事に入れという声が守る会からも行政からもあがり、就任することになりました。

理事になってからは、発言する時に“会社が金をケチろうとしているんじゃないか”と誤解が生じないように気をつけています。守る会の中で、「統廃合をして会社が金をケチろうとしているんじゃないか」という意見が出たと聞いて驚きました。まったくそのような考えはございません。

それと、理事も現場を知らなければならないと思い協会現地のいろんな会合に出させていただいてるんですが、協力員活動をどうするかといったことを守る会と協会が相談しあっている、これはいい取り組みだと思いますね。検診を呼びかけていらっしゃるのもいいですね。なぜ検診が必要なのかをもっとピーアールされてもいいんじゃないですか。

守る会のみなさんとは、二者協議や「三者会談」推進委員会でお付き合いさせていただいています。私の性格的なものから来る考え方かもしれませんが、そういう場であまり形にとらわれず、ざっくばらんに話し合えるような関係になれば、と願っています。四役のみなさんにも生の声をどんどん出してもらって、行政や会社に対して緊張感を高めていただきたいと思います。今後ともよろしくお願いいたします。

(中島) 今日はお忙しいところ、事件当時の話や会社の取り組みなどを聞かせていただき、ありがとうございました。

 

                                                                                             

(コラム)

「会社推薦の協会理事問題について」

 

「…守る会は「四十歳以降のあり方」の討議の中で「財源問題に対する守る会の方針」を確立し会社に申し入れてきた。安定した財源の確保を目的とした確認事項の中心は守る会と会社との信頼関係の強化であり、加害企業としての社会的責任を果たすことであった。具体的措置として、事件の風化を防ぐ社内研修を取締役を先頭に系統的に行うこと。会社経営の中軸(中期計画)に被害者救済を据えることであった。守る会の申し入れは両者で確認され直ちに実行に移された。

三者が担う責任の課題は違うが、確認書第五項の確約事項の実践の立場からすれば守る会、厚生省、森永も共通した役割、責任を負っている。その責任を忠実に果たす限り、理事の推薦から森永のみを除く理由はない。守る会は二十五年の実践はこの問題を解決すべき時期にきていると判断する…」(一九九八年六月の守る会常任理事会討議資料から抜粋)

 

中島洋氏

一九九一年から全国本部常任理事、事務局次長を経て現在副理事長。九州五県本部のまとめ役として、また協会理事としても活躍する。

 

あらためて風化防止の大切さを

今回は入社以来、会社として私達にかかわられ、現在ひかり協会常任理事の菊地さんと対談をしました。対談では、雪印食中毒事件や牛肉偽装事件、自動車会社の情報隠し等、私達に直接影響を与えるものものを扱う企業のモラルが厳しく問われている今日、事件当時のことや救済事業に対する会社の姿勢などをお聞きしました。事件当時のことでは、大学病院が野戦病院のようで、一人が泣き出すとみんないっせいに泣いて修羅場のようでしたとのこと。自分の両親から聞いていてうなずいたこと、今回初めて知ったことなど、守る会の親御さんのご苦労をあらためて痛感しました。

会社の中ではこの事件のことを、新入社員教育のときや関連会社を集めたときに、二度とこのような問題を起こさないように風化防止に努めているとのことでした。しかし、事件当初はもちろん協会設立当初からかかわっている社員も少なくなり会社として世代交代していくなか、私達守る会も親から被害者本人へと引き継いでいくことで改めて守る会運動の原点、組織強化の大切さを感じました。

 

 

⑥三者会談開始当時の厚生省食品衛生課長  三浦大助氏

 

三浦大助氏 略歴

 

技官(医師)として厚生省に入省。食品衛生課長時代に森永ひ素ミルク中毒事件の和解交渉に力を発揮し、協会設立に尽力。厚生省公衆衛生局長などを経て退官。その後請われて平成元年から故郷の長野県佐久市の市長になり、現在も務める。協会では昭和六十年から理事、常任理事、副理事長を歴任。長野県在住、七十七歳。

 

 

(本記事)

貧困のもとは病気だった。だから予防医学を志した

(前野)新佐久市の市長にご就任、おめでとうございます。

(三浦)ありがとうございます。早速だけど、これを食べてみてください。近くでとれたドングリです。

(前野)ドングリですか…。(一つ口にして)意外とおいしいですね。ピスタチオというナッツに似た味がします。佐久市では野山に自然にある物が特産品だと聞きましたが、それは三浦市長の発案なのですか。

(三浦)この辺じゃ昔は、みんなこんな物を食べてたんですよ。イナゴ、サナギ、蜂の子、ゲンゴロウ、ドジョウやフナなどの川魚。それで私が市長になってから「自然に帰れ」と提案して、毎年十一月二十三日に虫や雑草を食卓にズラーッと並べてみんなで食べるんだけど、大阪からもわざわざ食べに来る人がいますよ。ミミズのハンバーグなんか、「おいしい、おいしい」と言います。

(前野)昨日「蜂の子」を食べてみましたが、確かにおいしかったです。

(三浦)この辺りは昔、みんな貧しかった。私の親が医者をやってたんだけれど、健康保険なんかない時代でしょ、患者を診ても現金をいただけるのは三分の一。集金に行くと「これ食べてくれ」と言って、ウサギとかニワトリとか米などの現物でいただけるのが三分の一。あとの三分の一は払えない。昔の医者は本当に人助けのための医者だったように思う。昔は家の者が病気になると貧乏になった。貧困のもとは病気だった。それで私は予防医学を志した。

 

一時金による解決方法をとらないで本当によかった

(前野)そして厚生省へ入職されます。ちょうど食品衛生課長をされている時に三者会談が始まります。

(三浦)昭和三十年当時、私は食品衛生課の隣にいて、森永の事件はよく知っていた。その後、食品衛生課に転勤になって間もなく「十四年目の訪問」が発表されましたが、私はその前から公害問題とずっと取り組んできた。けれど、食品事故や公害の紛争を担当してきていつも不思議に感じていたことがあった。それは、いつも紛争の解決のために裁判が起こされるんだけれど、最後は和解金による調停で終わる。最初に被害者側が主張する金額が持ち込まれ、次に加害者側からの金額が持ち込まれ、互いに近寄って最終的に両方が納得すればいいじゃないか。これが司法の世界の考え方なんだなと思ったんですよ。カネミ油症も水俣もかかわってきたけど、裁判による和解とは、結局一時金もらって終わりだから、どうしても中途半端な救済になってしまう。もちろん司法は大事な機関なんだけれど、自然科学の分野で学んできた自分にはどうもその考え方に納得できない。これが私が長年不思議に感じていたことでした。

たとえ後から患者の症状が悪化しても、一時金もらってるから何も言えない。慢性の疾患になる場合が多い公害被害者は、生涯救済すべきじゃないかと思っていました。このように、公害担当の仕事をしていていつも解決方法に疑問を感じていた時にこの森永の事件にぶつかったんです。

(前野)そのように疑問を感じていた三浦食品課長のところへ当時の守る会の人達がやってきて、子どもの恒久救済を訴えます。

(三浦)とにかく熱心でしたよ。北村さん、黒川さん、細川さん、それから島根のお医者さんだった常松さん。本当に頭が下がります。守る会の人達が一枚岩になってやってくる、さらに今も理事をされている阪本先生のような専門家の方々も一致協力していましたね。とにかくみなさん一途でしたよ。だからこそ、私たち役人も何とか被害者を生涯救済したいと思った。司法によらず三者会談による解決をという議論はそこから出発したんですね。

今言ったように三者会談を重ねていってそこで和解していくんだけど、その場にはどちら側の弁護士もいなかった。こういう紛争の解決の場に弁護士が一人も同席しなかったというのは、過去に前例がないんじゃないかな。そして、こういう和解交渉理解をもっていた斉藤邦吉という当時の厚生大臣や、山口敏夫政務次官も偉かったと思いますねえ。役所というのは昔から何か新しいことをやると必ず抵抗があるんですよ。それをきちんと認めてくれた。

裁判に一生懸命取り組んでいた弁護士の方々には悪かったかもしれないが、一時金による和解という解決の方法をとらないで本当によかったと思う。その後、私は環境庁へいき、また大気汚染などの公害の問題にかかわりましたが、他の公害問題の被害者も森永事件の解決方法を学ぶべきだと思いましたね。

 

初心に帰って、救済事業もボランティアの心を大切に

(前野)そのように三者会談の確認書にもとづいてひかり協会が設立され被害者の救済が始まります。協会設立以前から現在までかかわっていただいているなかで、協会や守る会について感じられることがあればお聞かせください。

(三浦)長年にわたる恒久救済となると、膨大な救済資金が使われることになる。これまでに総額三百五十億円、最近は年間十六億円位使われていますね。一時金じゃとても出せない大金でしょ。毎年毎年出されるその大金を被害者救済のために公正に使い続けられなければならない。そのためにひかり協会という法人をつくった。私は、加害者としての十字架をしょってる森永が資金をちゃんと出し続けてるんだから、みんなが初心を忘れずに救済を坦々とすすめていってくれたらいいと思っています。 あまり激しく意見を主張される方ではないが、細川先生のような方が救済を見守ってくださっているというのは安心ですね。ひかり協会の良心だと思います。

それと、こういう言葉が適しているかどうかわからないけれど、守る会の組織に「自浄作用」がある。そこは大したもんだと思いますよ。

(前野)守る会が、「三十歳代のあり方」を検討するときに、救済事業は社会的支持を得られるものでなければならないとした。被害者団体みずからがそのように決めた。「自浄作用」とはそういうことを指しているのですね。

(三浦)守る会が「自浄作用」を持っていることは大変よいことだし、それが恒久救済を続けられる要因になっていると思いますよ。厚労省も当時合意したことを、三十年以上もないがしろにせず脈々と受け継いでいる。そして「三者会談」が続いている。これも大したもんですよ。それぞれが、初心を忘れずにいるからでしょうね。

以前、守る会幹部であった徳島の岩佐さんが理事会の席でしばしば「ボランティア」という言葉を使われた。ところが最近、協会の理事会や事業の中で、その言葉をほとんど聞かなりました。私から見て、救済事業が「職業化」してしまっていないだろうかという危惧をもっている。協会をつくったころの初心に帰って、ボランティアの心を持って救済事業をすすめていっていただきたいですね。

もちろん協会に勤務する者は、それ自体が職業です。しかし、弱い人を支えるという仕事を全部協会事業としてやるわけにはいかないでしょう。福祉という仕事には限界がありません。そこにボランティアの参加が必要となってきます。いま、福祉という仕事全体にいえることです。福祉先進国をみてもわかります。ボランティアの心は、職業の論理では割り切れないものがありましょう。私はそこに、今日の社会の、特に弱い人達を支える福祉という仕事に従事する人々にとって重要なカギがあるとみています。福祉という事業は、ボランティア活動とセットで考えるべきです。

 

弱者救済から生活支援へ。佐久市の出生率は上がっている

(前野)大事なご指摘ですね。守る会は、協会事業に主体的に責任を持とうという方針を掲げています。協力員活動などは先生のおっしゃるボランティアの心を発揮しようという取り組みだと考えています。

最後に、佐久市の福祉行政についてお聞かせください。

(三浦)今、私のまちは日本で一番の健康長寿都市です。医療費も日本で一番少ない。介護予防の仕事を重視しているから医療が必要になるところまで悪化しない。全国からの視察も増えている。

佐久市の福祉の考え方は、かつての「弱者救済」から「生活支援」へと変わってきた。少し前まではこの市でも、若い夫婦が働きに行っている間ベッドに紐でつながれている「痴呆老人」がいた。火事を出したり、徘徊されたら困るからです。そこで、もう在宅では無理だから市の施設でみましょうと。そうすると若い夫婦は安心して仕事に行ける。

子どもの福祉も充実させていますよ。児童館(学童保育)がどこの地域にもある。小学生は午後七時まで無料で預かる。だから、お母さんも仕事をすませ、買い物もすませてから迎えにいける。結局親の生活を支援しているんですね。そういう福祉をやってると、佐久市は子どもや老人へのサービスがいいぞということで、人が移ってきて人口が増え続けている。さらに、若い夫婦が一人目の子どもを育ててみて、育てやすいもんだから、二人目三人目となる。うちは出生率が上がってるんですよ。全国は一・二九で長野県は一・四四で佐久市は一・六七です。しかもこの一年間でも〇・〇一上がっている。今時めずらしいでしょ。これは子育て支援をきちっとやっているからですよ。

住みやすい町になると若い人も増える、活気が出てくる。これが弱者救済から生活支援へと福祉に対する考え方を発展させてきた結果なんですよ。

(前野)充実した福祉政策と最初いただいたような自然食が合わさって、健康長寿都市が実現していることがよくわかりました。今日は、救済事業にとどまらず、根本的な福祉の考え方についてまでうかがうことができました。これからも被害者の恒久救済が坦々とすすむように副理事長としてご活躍くださるようお願いいたします。

 

 

(コラム)・・・写真あり

NHKでも報道された、「ピンコロ地蔵」

 

佐久市内のお寺の門前にたてられている「ピンコロ地蔵」という愛称で呼ばれる長寿地蔵尊がある。どんな人がお参りするかというと、ほとんどが「ピンピンコロリ」の願いをかなえたいお年寄りそうだ。

「うちの町ではね、何年も寝たきりで長生きするんじゃなく、健康長寿をめざそうと言っています。以前から私はそれをピンピンコロリ(PPK)と呼んできた。佐久市には実際そういう健康な老人がたくさんいる。年をとってもピンピンと元気に生活して、死ぬ時はコロリと死ぬ。去年の暮れに地域の人がこのお地蔵さんを建てたんですが、NHKで放映されたとたんに東京あたりからバスを連ねてお参りに来られる。ピンピンコロリが今のお年寄りの願望なんですね」と三浦大助さんは語る。お賽銭はある程度たまると、震災被害者などに贈ったりしているという。

 

前野直道

 

大阪府本部委員長、常任理事、副理事長、九年間の理事長を経て二〇〇五年六月月から副理事長。協会理事も長年務めてきたが二〇〇四年より常勤副理事長として勤務している。大阪府在住。

 

坦々(たんたん)と救済事業をすすめていったらいいですよ

 

東京から上越新幹線で一時間半、いつのまにか風景は高原のそれとなり、佐久平(さくだいら)についた。中ほどを千曲川の清流が流れ、七月中頃には夜になると蛍が飛び交うという。

三浦副理事長は厚生省を引かれたあと、この佐久市で連続五期市長に選ばれている。医療、福祉の専門家として、またその政治手腕を生かして住みやすい町づくりをされていることは対談記事のとおりである。ひかり協会の設立前夜からかかわりを持たれ、今も副理事長としてしばしば重みのある発言をされる。

今回の対談のなかで最も私の心に残っているのは、「坦々と救済事業をすすめていったらいいですよ」という言葉である。今年は事件発生五〇年ということで注目しているマスコミもある。しかし現在は、事件発生当時や「十四年目の訪問」直後のような激しい闘いの時期ではない。いわばあまり「マスコミ受け」するような状態ではない。けれども、「マスコミ受け」なんかしなくていい、坦々と被害者の救済をすることこそが尊いことなのである。数々の公害問題の紛争解決に携わってこられた三浦副理事長の確信に満ちた言葉であった。

帰りの新幹線の窓から見える千曲川のゆったりとした流れをながめながら、その言葉の持つ重みをかみしめていた。

 

 

⑦守る会と協会の幹部として運動と事業の舵(かじ)取りをする  細川一眞氏

 

細川一眞氏 略歴

大阪大学医学部卒業。府立成人病センターで勤務後、大阪市内で細川医院を開業。大阪府保険医協会副会長も務められた。守る会では、一九七一年から常任理事、副理事長を歴任し現在相談役。ひかり協会では第一期から理事、常任理事、常務理事を歴任し現在常任理事。大阪府在住、七十九歳。

 

 

(本記事)

 

西沢委員会の答申はあまりにもずさん

(桑田)この間東京に三回ほどおいでいただき、お話をうかがっているのですが、今日はご自宅(細川医院)まで押しかけてまいりました。

先生は専門家でもあり、同時に被害者の親という立場でもありますね。

(細川)ええ、次女が昭和三十年三月生まれで被害者なんですよ。私は大学を卒業して三年目で、大学の研究室にいました。朝早く出て夜遅く帰るという生活をしていました。たぶん五月頃から中毒を起こしていたように思いますね。うちは薬局が出入りするのでミルクも十二缶セットで買っていたから、ずっとひ素の入ったものを飲み続けたわけです。吐いて下して皮膚が黒くなっていくのだけれど、まさかミルクにひ素が入っているなんて思いもよらなかった。わからないまま、脱水症状を起こすから補液を注射したり、重湯を飲ませたりしてなんとか八月二十四日まで生き延びさせていた。 八月二十四日に発表があってびっくりしましたよ。捨てていたミルク缶を見たら全部問題のミルクのロット番号だった。

よく言われるようにミルクを飲ませなくなったら急激によくなりました。子どもの回復力はすごいですね。その後幼稚園へ行っている頃に弱視がわかった。ひ素は抹消神経炎を起こすので、ミルク飲用のせいかなと疑ったけれど、どのドクターもひ素との関係はわかりませんと言いましたね。やはり当時西沢委員会の治癒判定基準がゆきわたっていた影響かもしれません。

(桑田)西沢委員会はあまりにも早く簡単に答申を出しすぎたと思うのですが。

(細川)西沢委員会のメンバーは個人個人は悪い人ではなかったけれど、もうちょっと勉強しておけばああいう結論にはならなかったはず。例えば岡山大学の眼科では眼底の乳頭(視神経)に異常があるから追跡が必要とレポートしていたし、亡くなった被害児の解剖をした所見では、脳に点状出血があったことが把握できたはずです。そうすればあんなずさんな答申にはならなかったと思う。

 

丸山先生から「見に行ってくれ」と言われて守る会運動に

(桑田)細川先生は丸山先生と同じ大学ですが、その当時からお知り合いだったんですか。

(細川)丸山先生は昭和十年に大学を卒業されると、衛生学教室で乳児死亡の衛生統計の研究に没頭されました。そして社会経済条件が乳児死亡に影響することを、自ら考案された「アルファ・インデックス」と名づけた指標を駆使して明らかにしていかれました。先生は昭和十二年から大阪府の岸和田市で実証的に乳児死亡の研究をされていました。訪問調査をして一例ずつ聞き取りをされた。その時の手法は「十四年目の訪問」で生かされています。丸山先生の学問は終始一貫「民衆の視線から」でした。その業績が認められて曽田先生(後の初代「ひかり協会」理事長)に引っ張られて厚生省統計情報部で仕事をされるようになりました。ところで大阪大学部には「アルファ会」という社会医学の研究・実践の集まりがあり、丸山先生はその創始者の一人でした。私も入会していましたから「アルファ会」の先輩と後輩になります。

(桑田)その後丸山先生といろいろな面で協力しあう関係になられたわけですが、どんな方でしたか。

(細川)丸山先生は、金銭的にも家庭生活でも非常にきれいな人だった。だからみんな尊敬するんですよ。丸山先生は体が弱くて食べ物も選択して食べないといけなかった。奥さんはそれを研究して先生を支えられ、先生も奥さんを尊敬しながら生きてこられた。そういうこともあって保健婦さんたちからも尊敬されていたと思いますね。

(桑田)その丸山先生が「十四年目の訪問」の報告をされます。そのころの細川先生との関係についてお聞かせください。

(細川)私は当時大阪の成人病センターで勤務していたんですが、たまたま大学に帰ったところ丸山先生に「中川先生(後の三代目『ひかり教会』理事長)と一緒にちょっときてくれ」と呼ばれました。そこで「大阪で守る会をつくるらしいが、少し心配なので見に行ってくれ」とおっしゃるんですね。何か先生として心配があったのでしょうね。その後結成大会があるというので行きました。その時に北村さんも本部からの来賓としてきていたけれど、彼も丸山先生と同様の心配を感じていたみたいで、岡山での全国組織結成直後に北村さん自身が大阪の代表に就きました。それ以来私も守る会運動に深くかかわるようになりました。

 

恒久対策案で一番大切なところは総論部分

(桑田)細川先生は恒久対策案作成委員会の責任者になられますが、半年くらいで完成させるエネルギーはすごいなと思いますね。

(細川)あの時は具体的な要求が全国からたくさん集まってきました。特に岡山には活動家が多くてレベルも高い要求がたくさんあがってきた。それらを整合性のあるものにまとめるのは大変だった。けれど素案のようなものは岡山の青山英康先生とか岡崎さんが作っていたし、それを基にして日本小児科学会が対策案を出していたので参考にした部分も多い。もちろん守る会の考え方が根本にありますが。

今でも恒久対策案の各論、特に金銭給付に類する箇所を取り上げて「これを協会が実施しないのはけしからん」という人がいますが、そもそも恒久対策案で一番大切だと言ってきたところは総論部分なんですよ。原則になることを四つ挙げ、「これを(会社が)認めれば、各論の細かいところにはとらわれずに、実行しやすいように話し合おうじゃないか」と第四回総会でも決めています。

それから専門家にも意見を求めましたが、特に弁護団が細かくチェックされました。その時に金銭的な要求も入れるように言われました。というのは、当時裁判になるかも知れないという時期でしょ、そんなときに守る会が「金銭賠償はいらない」と書いたものを発表したら、民事訴訟ができなくなる。恒久対策案の中でも金銭にかかわるものを要求としてあげておかないと裁判闘争に差しつかえる、こういう強い指摘があってそういう内容をだいぶ入れましたね。各都府県によっては本部のそういう真意が正確に伝わらず、また徹底しなかったため、その後もたびたび論議になりました。

 

三者会談開始にむけて私的に対応、この時も丸山先生の助言が

(桑田)三者会談開始のきっかけもつくられますね。

(細川)昭和四十八年七月になって、厚生省から再三打診があり、七月二十五日には課長補佐が「厚生省としては、森永を全面降伏させるから」という話を持ってきた。そして、七月二十七日に政務次官の山口敏夫さんも来させるという約束もして帰った。こうして、山口さんが大阪へ来て、「早急に救済事業を実現させるために、森永に因果関係を認めさせるから、守る会・厚生省・森永の三者の話し合いを持ってくれないか」と熱心に提言されました。活動方針を担当していた北村副理事長と私が、私的な立場で対応しました。それは三十年当時の経験から、もしだまされるようなことがあっても守る会に傷がつかないよう、二人で責任を取るためでした。

次は北村さんと私が厚生省へいって、斉藤邦吉大臣と山口政務次官に会った。大臣から「厚生省としてできるだけのことをしたい。森永乳業と話し合ってほしい」と言われた。また同席していた局長や課長に対し厚生省に対する守る会の要望であった未確認問題を「すぐさま処理するように」と指示してくれた。

そしてそのあと、別室で厚生省立会いのもと大野社長と会いました。社長ははっきりと「因果関係を認めます」と言った。これで話し合いの前提が得られたと判断して、守る会理事会でその経過を話して乗るか乗るまいかを話し合い、「まず問題ないだろう」ということになって守る会理事会の決定として三者会談へとすすむことになった。

(桑田)本当に大丈夫かなという心配もあったでしょうね。

(細川)北村さんは昭和三十年当時の交渉の被害者側代表で苦い経験をしていますから、まただまされるんじゃないかと心配されました。じつはこのときにも丸山先生に相談しました。そしたら、即座に「それは、やりなさい」と助言して下さいました。丸山先生自身は運動に入り込まない人でしたが、そのぶん客観的によく見ていて、きちっと判断できる人だった。そこが偉いところでしたね。

その後も理事長をだれにお願いするかというときに、私と厚生省の三浦課長(現「ひかり協会」副理事長)が相談したんですが、曽田先生ならみなさんの賛同を得られそうだったので、曽田先生を厚生省推薦の四名の中に入れていただくよう三浦課長に要請し、努力して実現していただきました。その時にもまた丸山先生に相談し、曽田先生に電話をしてもらって後日了解をいただくことができました。そのように丸山先生には要所要所でご支援いただいた。先生から「それでいい」と言われたら、迷っている時にも自信をもってやれるようになりますね。

 

相談事業を中心にすえて、個別性と総合性を重視してほしい

(桑田)救済事業の内容については、松山合宿あたりがターニングポイントだったように感じるのですが。

(細川)あの頃に問題になっていたことの一つが、守る会がなぜ協会に協力しないといけないのかということだった。協力したらそれだけ森永の負担を軽くするだけじゃないか、そういう意見ですね。それともう一つが救済事業の中身の問題ですね。松山合宿のあとを受けて協会理事会も熱海合宿をする。社会生活の自立と発達を保障するような方向で救済すべきだということが決まる。その一番の基本になることが相談事業だ。相談事業を中心とした事業の体系にしょうというものだった。それまでの「基準」というものは、現地交渉や本部交渉で個々に勝ち取ったものが基本になっていた。それを改めて多様な被害者のニードを客観的に把握し公平に扱おうとした。同時に多様なニードだからこそ一律に扱ってしまわぬように相談事業を中心にすえた個別性といろんな事業を組み合わせて対応する総合性も重視した。熱海合宿のあとに作られたいわゆる「二十歳代のあり方」そして三十歳代、四十歳以降という流れができたけれど、そういう意味では松山合宿と熱海合宿は協会事業の基礎固めをしたものといえるでしょうね。

今の職員さんも経験が少なくても、「こういう規則だからこうです」とビジネスライクにならないで個別性と総合性に気をつけて大事にしてもらいたいですね。守る会もそういう視点でチェックしていただきたいですね。

 

団結して守る会組織を維持し、協会事業の存続と発展を

(桑田)守る会や被害者に対するメッセージがあればお願いします。

(細川)協会事業は守る会が生み出して維持しているんだという自覚と、倫理的な事業をやっているんだという誇りを持ってほしいですね。またこの協会事業を存続させ発展させることが守る会としての責任だと思います。それと守る会の主体性をどう維持するかですね。今の理事会構成からすると、被害者のことをよく知っていて被害者の視点で考えるのは守る会推薦理事の役割です。だから守る会推薦の5人の理事はまとまって、被害者の立場からしっかり発言してほしい。それが主体性を維持することです。

各県の役員さんも協力員活動や幅広い活動を支え、その人達の思いを反映した守る会活動に努めてほしいと思います。本部でも都府県でも団結して守る会組織を維持していくことが一番大事です。守る会がなくなると協会もどうなっていくかわかりませんよ。守る会の全国単一組織の原則が、被害者の団結を守って今日の事業発展の基礎になっていることを忘れないでいただきたいと思います。

(桑田)これからもまたいろいろな場でお話を聞かせてください。今日はありがとうございました。

 

 

桑田正彦氏

広島県生まれ。被害者の会の頃より運動に参加し、守る会東京都本部の「顔」として長く常任理事を務めていたが、二〇〇五年度、事務局次長に就任。父も守る会副理事長として活動していた。埼玉県在住。

 

 

丸山先生の偉大さと、守る会運動の継承・存続の責任を実感

 

細川先生は、長年、守る会・協会のリーダーとして重要な働きをされてきた。私は旧・太陽の会常任委員、そして守る会常任理事と運動にかかわってきたが、一九七五年からの運動参加であり、恒久対策案の策定、松山合宿にも関与していない。もちろん私なりに「歴史学習版」は何度も読み直し、理解に努めてきたが、もう一つ理解ができていないという自覚があった。東京においても、細川先生にご講演を既に三度もお願いし、私は毎回参加してお話を聴いているのだが、今回、直接にご自宅を訪問し、インタビューをする機会が与えられて、大変貴重な経験となった。

また、細川先生のお話を通じ、丸山博先生の偉大さと存在がより近いものとなった。「十四年目の訪問」の丸山先生というにとどまらず、三者会談や協会設立に向けて、側面から適切な判断をし、当時の守る会執行部に確信を与えたことをお聞きした。何度か全国総会に来賓で来られ、最期まで傍聴されていた先生のお姿をお見かけしたにもかかわらず、声をかける勇気がなかったことを悔いている。

事件五十周年という今年、歴史を見据え・かみしめるとともに、それを教訓として、新たな時代を当事者として切り開き、りっぱに完走する使命を私たちは負っている。様々な困難性は今なお続くが、守る会が「ひとりは皆のために、皆はひとりのために」の精神で運動を継続すること、全国本部の役員一人ひとりがそのことをより強く自覚し、チーム力をつけていく必要を強く感じた。当初の時間を大幅にオーバーしたが、楽しくも有意義なインタビューとなった。ありがとうございました。

 

 

⑧ひかり協会事務局のかなめ  小池年郎氏

 

小池年郎氏 略歴

静岡県生まれ。京都で大学生活を送る。一九七四年四月、ひかり協会発足に向けて本部事務局職員として採用される。一九八九年、守る会常任理事会から推薦されて事務局長に就任。現在にいたる。滋賀県在住、五十五歳。

 

(本記事)

実は、友人の「付き添い」だった

(田坂)小池さんとは長い付き合いですが、こう改まって話をうかがうのは初めてですね。よろしくお願いします。

大学時代に点訳サークルなどの活動をされていたそうですが、やはりそういったことから協会に来られたのですか。

(小池)大学時代はいろんな障害をもった人達とかかわるボランティア活動をずっとしていました。だから、そういう仕事をしたいと思っていました。けれど生まれが静岡ですし、森永の事件には直接かかわってはいませんでした。ただ、一回生の夏に新聞で見た被害者の苦しみに驚き、森永に「早く何とかしろ」と手紙を書いた覚えがあります。それと田中昌人先生(のちに協会理事)のご自宅にお邪魔したとき、部屋いっぱいに「森永ミルク中毒事件・京都からの報告」の基礎データとなる資料を広げて検討されていたことを覚えています。事件の大きさを改めて感じましたね。

協会でお世話になるようになったのは偶然なんですよ。一九七四年三月、四月から発足するというひかり協会の職員採用面接を友人が受けることになって、そのとき頼まれて同行しました。私は別の進路を決めていましたので、友人の脇で聞いていました。ところが彼の採用が決まったあと、面接官の阪本先生(常務理事、現理事)と寒川さん(業務部長)「今、人がいなくて困ってる。あんたも一緒にうちへ来ないか」と誘われ、入職となりました。

 

つくってよかったと親族から思われる協会をめざして

(田坂)発足まもないドタバタしていた時期で大変だったでしょう。

(小池)中央救済対策委員会(後の「ひかり協会」)事務所の開所式が四月七日に現在の西近畿センター事務所でおこなわれました。東田先生(理事)や山下先生(専門委員)などがお話される雰囲気は、開所の喜びよりも未来へ挑戦する気概がみなぎっていました。同じビルの本部になる事務所に案内されると、室内には何もなく鉛筆を買い揃えることから仕事が始まりました。本部事務所のメンバーは五名でした。国立病院で事務長を歴任された榎本総務部長、寒川業務部長、岸本理事長の娘さんである岸本さん、友人(金沢さん)、そして私でした。

四月二十五日に設立許可が下りました。私が最初にした仕事のひとつは、この連絡を現地に入れることでした。ところが電話口の向こうの守る会県委員長さんのなかには「苦しい闘いの末につくったものだから、森永の防波堤になるなよ」と厳しく忠告される方も何人かいらっしゃいました。確かに第三者機関が被害者を切り捨ててきた歴史があるわけですから、できたばかりの協会がすぐに信頼されるわけがありません。私は、親御さんから「つくってよかった」と思われる協会に成長させなければ、と強く思いました。その後、協会と守る会の協力関係づくりに努力する長い歴史が始まりました。その結果と言ってもいいでしょうが、「四十歳以降のあり方」討議の中で、多くの親や被害者から「協会はいつまでも存続して欲しい」と言われました。本当にうれしかったですね。

 

松山合宿の統一見解に「さすが守る会だ」と感動

(田坂)設立当時、私が親たちから聞かされていたのは、本来なら守る会が救済事業をやったらいいがそのノウハウを持ってない、だから専門家や専門にやってくれる職員にやってもらってるんだということでした。

(小池)初年度は何もない状態からのスタートでした。教育福祉委員会などの専門委員会で、夏の守る会総会に向けて救済の中身を示す「暫定措置」を作りました。被害者の期待に応えようとして徹夜の討議もして理事会で承認してもらい、ようやく八月二十五日の大阪の豊中市で開催された守る会全国総会に間に合わせることができました。ところが、「暫定措置」の中身は守る会から歓迎されるどころかブーイングなんですよ。しかたないことだったかも知れませんが、寒川さんや私は立ち往生してしまいました。

しかしこうした状況に対して守る会は、翌年の松山合宿で協会と守る会の関係を整理し、「すべての責任が協会にあるとして、いたずらに協会に対する不信感を助長することはまちがい」、「守る会の活動なくして真の意味の被害者救済は実現しえない」さらに「被害者救済の目的において両者は完全に一致し、それぞれの主体性において不足の部分を補完しあうこと」といった統一見解を出しました。生まれたばかりの協会で事業の体系化がスムーズに進まず、まさに追い詰められた状態のときに、守る会がこのように冷静な姿勢で問題を整理されたのは、本当に救いでした。「さすが守る会だ」と感動しましたね。

 

三者懇(二者懇)が救済の推進力になるというのは大発明

(田坂)協会と守る会の関係はその後も論議がくりかえされますね。

(小池)そうです。例えば一時期「守る会は要求する側」「協会は要求を聞く側」と理解されたことを改善するために、一九七八年の「二十歳代のあり方」のなかに「救済事業を改善するための協会と守る会の一元化体制の確立」という趣旨の全国総会決定が盛り込まれました。これを契機に守る会内部で、一元化とは「守る会寄りの一元化」なのか「協会寄りの一元化」なのかといった議論が起きました。そのなかで守る会出身の所長さんたちが正しい関係をつくるために努力されました。

協会と守る会の関係を実践のなかで整理されたのは、やはり一九八三年から始まる「三十歳代のあり方」検討の時でしょうね。三年近くの討議期間の過程で重要な役割を果たしたのは本部や現地の三者懇でした。守る会、太陽の会、協会が対等平等な関係で話し合いをすすめました。このころになって「協会と守る会の一元化」という誤解を生じさせる方針は消えて、三者懇という対等平等な場が救済の推進力になるという大変な発明、発見をしたと思います。その後の「四十歳以降のあり方」討議では三者懇から二者懇になっていましたが、「三十歳」のとき以上に回数も人数も多い懇談がもたれました。被害者会員さんもこの取り組みの中で協会との協力関係を強め、組織を強化されました。

 

これからも守る会と協会が協力して被害者救済を

(田坂)そのような考え方も大槻さんからの影響があるのではないでしょうか。

(小池)一番長くそばにいて一緒に仕事をさせてもらいました。

大槻前理事長は「三者会談方式」の重要性をいつも強調されて、確認書の実践者として自ら先頭に立たれ、「三者会談方式」による恒久救済をつくりあげてこられました。そして三十年間さまざまな懸案事項の解決に当たってこられた方です。

話は飛びますが、厚労省の担当者が異動するたびに、出かけて行って三者会談方式の内容とその締結時の高い精神を理解し継承するように説明しています。私ははじめて確認書を知ったとき、他の公害事件のように法律や裁判によるものでないという危うさより、そのやり方の素晴らしさを感じました。そして難しい局面にもかかわらず締結に当たられた関係者の人間的で健康的な精神が満ちあふれていることにとても共感するものがありました。

その熱い思いをもって締結に当たられた方々は、現役の協会関係者では守る会相談役でもある細川常任理事、三浦副理事長、菊地常任理事だけになってしまいました。この締結に力を尽くされた方々の精神には確認書をもって被害者の救済をやっていこうという、誰もが共鳴するものを含まれていると思います。ですから確認書の運用に係る関係者はもちろん、協会事務局職員全員が身につけるため、締結時の状況をよく学習していかなければならないと思います。

これからも守る会のみなさんと協会とが協力し合って、被害者救済をすすめていきたいと願っています。

(田坂)今日はありがとうございました。これからも協会と守る会とのよい関係を作っていきましょう。

(編集委員会より)

十六年前にてひかり協会の事務局長に就かれた小池さん、「対談を引き受けてもらえますか」と依頼すると「僕は他の方とちがって事務局としてたずさわってきた立場ですから特にお話することもないので・・・」と固辞されたのですが、協会設立時から事務局に在籍し現在も職員六十六名のカナメとして重責を果たされていることからも是非にと、お願いしました。

 

 

(コラム)

パイオニアワークの熱人、寒川利朗さん

 

寒川(そうかわ)利朗さん、小池さんの心に今も強く焼き付いている人である。小池さんが初めて会った日、面接官であった寒川さんは独特の和歌山弁で

「おまん、日曜でも仕事があんまり休まれんがヨ、いっしょにヤロヨ。野人でなければできないよ」

と熱く語りかけたという。すでに就職先が決まっていた小池さんにひかり協会への就職を決意させたのは、前人未踏の事業に飛び込む寒川さんの熱意であった。

寒川さんは和歌山県龍神村で教師をしていた。被害者の親でもなんでもなかった。しかしこの事件に強い関心以上のものを持って、守る会和歌山県本部結成の先頭に立ち、やがて教師を退職して単身で大阪に住まい、協会本部の初代業務部長を引き受ける。

開設したばかりの多忙を極める業務の遂行の中心にいつも寒川さんがいたという。どんなに苦しくても「ワイラ絶対ヤロヨッ」と愚痴も言わずに楽天的に獅子奮迅で本部事務局をリードしていた。しかし、その後初代事務局長に就くがまもなく病に倒れ、やがて退職。そして一九九七年に六十六歳という若さで亡くなられた。今日の協会の基礎を作り上げた献身の人であった。

 

 

 

田坂隆恒氏

代表訴訟(高松)原告の一人。被害者の会設立時より活発に活動し副委員長などを務めた。一九九六年から守る会全国本部四役に入り、二〇〇五年副理事長。視力障害があるが意欲的な活動には定評がある。

 

恒久的な被害者救済をめざして

自立支援法が可決されましたが、医療費負担が十月からだったものが一月からにという飴をねぶらせるような小手先の同意となりました。ところが障害者のなかにも自分は関係ないと考えている者が多いのも事実です。あまり情報を持ち合わせていないだけに、今後どうなるか判らないのがほとんどだとは思いますが、それにしても知らなさ過ぎて私も落胆しております。いずれにしても障害のある被害者が路頭に迷わないように救済事業をやらなければなりません。私も本当に重度障害者になりつつあるため、その立場から訴えなければなりません。

今後とも小池事務局長はじめ協会事務局と私たちとのよい関係が続くことを願っています。

 

 

⑨協会設立後の守る会運動と協会事業に大きな貢献   大槻 高 氏

 

大槻高氏 略歴

京都府職員のかたわら、守る会京都府本部事務局長を務めていたが、1977年、空席となっていたひかり協会事務局長に就任。翌年よりひかり協会理事にも委嘱され、以後常務等を歴任し一九九九年四月から二〇〇五年三月まで理事長。京都府在住、八十二歳。

 

(本記事)

 

(小畑)この五十周年記念対談も今回で最後の方をお迎えすることになりました。今年の三月まで協会理事長を務められ、長年守る会運動を理論的にリードされてきた大槻さんです。

(大槻)この五十周年企画はよかったね。

(小畑)ありがとうございます。

大槻さんはどういうきっかけから守る会にかかわられるようになったのですか。

(大槻)京都の守る会も最初は大阪の影響を受けているんですよ。早くから大阪は関西版ニュースを出していたし、北村さんが、守る会を京都でも作りたいから協力してくれと京都府知事に申し入れに来たこともある。当時私は京都府職員労働組合の委員長をやっていて専従だったから、知事の意向もすぐに入ってきた。さらに内田さん(後に京都府本部委員長や全国本部副理事長を歴任)からも「一緒にやらんか」と声がかかってきた。彼は昭和三十年当時大阪にいて北村さんらと一緒に全協で活動していたというつながりがある。

(小畑)ここでも北村さんが活躍するのですね。

(大槻)ものすごく熱心な人だった。

関西版ニュースを見たりして、私もようやく「こんな大変なことになってるのか。手伝わないといけないな」と思った。それとたまたまうちの家内が母親大会に参加したら、そこでも大きく取り上げられていて「森永のこと大変ですよ」と言われ、ますます放っておけなくなり、守る会の活動にも参加した。でも当時はまだ家内の方が積極的で、「あんたの主人は何しとるんや」と言われてたらしい。そのうちどんどん声が掛かってくるようになり、内田、中村、私らが中心となって京都府本部を作った。

(小畑)京都でも現地交渉がありましたね。

(大槻)京都大学の山下節義先生(後にひかり協会本部専門委員)が森永問題に熱心だった。山下先生は公衆衛生が専門だったのでいろんな公害問題にかかわっておられたが、守る会京都府本部が結成されてからは「もう森永一本でいく」とおっしゃって、他の公害問題から手を引かれたくらいだ。それ以来大学の研究室へ何度も足を運んで話を聞いて勉強させてもらった。先生が強調されたことは「未確認問題の解決が一番大事である。全被害者救済をやれ」ということだった。だから京都府に対して「全被害者を対象とした健診を」と要求した。それ以来守る会全体が全被害者救済という立場で動いた。

こういう流れの中で私も京都の追跡調査委員に委嘱された。まだ組合専従だったので、組合の用事で郡部に行ったついでに被害者宅を訪問したりもした。その頃は毎晩のように訪問して、健診を受けるようにすすめたり、守る会に入ってもらうように活動した。

(小畑)未確認問題は大きいですね。他の公害被害者団体はこの入口のところで分断されたという気がしますね。

そしてやがて協会の事務局長になられます。

(大槻)守る会の京都府本部事務局長をやっていて最初は協会に対してやや傍観者的だった。当時、協会のほうは寒川さんという人がやっていた。寒川さんも和歌山で教職員組合運動を熱心にやっていた人だったので以前に交流したことがあって知っていた。その寒川さんが協会に来て仕事をしていると聞いて心の中で尊敬していた。彼は被害者の親でもないのに守る会に入って献身的に仕事をしている、こんな偉い人はないと尊敬していた。

そうこうしているうちに、彼が病気になり、事務局長をやれという声が私にかかってきた。このときも北村さんの影響ですよ。寒川さんが体調を崩してしまい何とかしないといけない、守る会から事務局長を出そうと守る会の常任理事会で提案した。その議論のなかで北村さんが「大槻やれ」と強く推した。しかし私は労組の専従だからと断っていたがとうとう自治労本部で論議になって、そこにまで北村さんがやってきた。結局「大事な仕事だからお前行って来い」ということになり決まった。北村さんはそういう積極的な動きをする人で、存在も大きく尊敬できる人だった。やり手だったし熱心な人だった。

こうして一九七七年に事務局長になった。しかし、これまで労働組合ばかりやってたから協会事業なんて全くわからない。吉川(きっかわ)さん(和歌山県事務所長で教育者でもあった)が「被害者の自立と発達」とか発言しても何のことかわからなかった。

(小畑)被害者が二十二~三歳のころですね。守る会と協会の関係についての認識はどうでしたか。

(大槻)そんな調子なので当時は私の認識も浅かった。松山合宿で協会守る会の相互位置づけを決めた。「一元化」については、その後「一元化」という言葉が「一体化」と同意語に使われる傾向もあり心配し、全国総会を通じ正しい協力協同関係に修正した。守る会と協会は同一組織ではないので、正しい協力協同の関係を築くには、協会は守る会の自主性を尊重し守る会も協会の自主性を尊重しなければならない。そういう団体間の協力関係の基本は将来的にも大事だと思います。

(小畑)今の被害者もそのことを十分理解してやっていかないといけませんね。

大槻さんといえば毎回の「あり方」論議をリードしてこられたという印象があるのですが。

(大槻)「あり方」は毎回の課題が違うんですよ。だから私自身も勉強したし、守る会でも学習を重ねてきました。流れをよく見てほしい。

最初の二十歳代のときは守る会から「調整手当の見直しを」ということで出発した。

(小畑)いつまでも額があがらないので親御さんたちが上げてくれと言ってきたのですね。

(大槻)私らもよくわからなかった。それでも「調整手当の見直しを」という原案を守る会で作って協会に出した。そしたら協会理事会では、単に金銭給付の見直しだけでなく救済事業全般の見直しをする必要があるということになった。それを受けて守る会でも、「そうだな」ということになった。そうして、救済の三原則とかが確立されていった。

三十歳代の「あり方」では三者会談方式(ひかり協会方式)を前面に出した。同時に守る会の強い要求である「親なきあと」の問題がクローズアップされた。だから「三者会談方式」と「親なきあと」を整理することが大きな課題だった。そのころには「一元化」でなく協力協同の関係が大切だという流れでした。そのなかで被害者自身が救済事業に協力するという協力員制度をつくりました。

四十歳以降の「あり方」は、十年ごとに作り直すのではいけないから四十歳"以降〟とした。それと協会を将来的にも存続させようと思ったらどうしても事務局体制の見直しをしないといけないと考えた。

これら「あり方」検討では、そのたびに守る会意見を出してきたし、協会もそれを尊重しながらやってきた。「あり方」討議の経過で重要なのは、協会設立趣意書に基づき民主的討議を貫いてきたことにある。討議の前段で守る会と協会の間で基本的確認事項を確認し、それからこれに基づく案を関係者が時間をかけて作成したことがよかった。ただし、機構等検討はその性格上守る会と協会理事会の両者で討議し、ブロック制実施要綱へと進めた。これは案件の性格上、守る会の今後の組織責任に係る課題であるためである。

(小畑)確か私が「事務局に意見を求めなくていいのですか」と質問したら、濱崎さんから「これは守る会が責任をもってやることだ」とぴしゃりと言われたことをおぼえています。

(大槻)そのころ濱崎さんと私の息はぴったり合っていた。

しかし私と濱崎さんとは真正面から対決していた時があった。守る会役員を全国総会で選挙したころだ。(注 一九八二年と翌八三年だけ全国総会で本部役員を代議員による投票で選挙した)

その前に規約改正問題があった、いわゆる「五たび改訂の趣旨」である。じつはこれがいろんなところに波紋を起こした。

七四年に改正した規約の中に「救済対策委員会及び協会職員は守る会が任命する」という項があり、それはよくないということで削ることを決めたが、それに反対があった。これは協会事業のなかで守る会が主導権を握らなければならないという考えの人達から出てきた。守る会の名称を「被害者を守る会」に変えるという案に反対する人もいた。これは「こどもを守る会」に戻せという主張で、徐々にエスカレートしてしまい最後は「守る会の再建」と称する分派行動に及んだので古くからの幹部だったが除名された。除名は全都府県本部が支持した。

さらに規約改正には「五たび改訂の趣旨」で「守る会は解散し社団法人と作る」という意見があり、その討議と並行して「会社から百億円だしてもらい自主財源でやっていくんだ」と主張した幹部がいて問題になった。

こういうなかで投票による役員選挙が実施された。私は思想信条の違う相手と話し合うことを大切にせず、選挙という形で一方を排除してしまうことは根本的に間違っていると思った。その上、対立が協会にも波及し、所長の一部の人たちが「清風会」という組織を作り、守る会も協会も分裂の危機が心配された。そこで、選挙で対立していた濱崎さんの家へ直接行った。夜に何回も行って話しこんだ。最終的に「きみを信用しよう。守る会の団結を大事にしよう」と言ってくれて、それから最期まで協力し合う関係になった。彼は協会の理事でも所長でもなく、全く被害者の親の立場で行動したから、厚生省や会社も尊重していた。

(小畑)最後に被害者へのアドバイスをいくつかお願いします。

(大槻)まず社会情勢との関係ですね。確認書締結の頃は公害反対が高揚していたけれど、今はそうでない。だから救済事業にとっても厳しい時代だ。こういう中でもきちんと進めていくにはやはり三者の協力をどう確保していくかですよ。守る会の役割は非常に大きい。

次に全国単一組織を守りきれるかどうかですね。以前から自分の県のことしか考えないという「各県主義」がありました。全国の統一した活動をひろげていくことを大切にしてほしい。昭和三十年当時に会社にやられてしまったが、あの頃は各県主義でバラバラだった。その反省から再結集後は全国単一組織を大事にしてきた。これは時代が変わっても重要だ。機構等検討委員会から実施要綱作成まで強調してきたことは「今日の救済事業の到達点は三者会談の継続と守る会の組織的協力にある」だった。それが基本であり、今後の発展方向であると述べている。それと、協会にたいしてどういう役割を果たすかが大事だ。特に四役体制。四役は協会と直接対応する機会が多いと思う。懇談の機会も多いし理事会に入っている人も多い。守る会を代表しているわけだから、まとまった意見を持って積極的に発言してほしい。現在、大体いい方向にあるとは思いますが、引き続きがんばってください。

(小畑)今日はありがとうございました。これからも叱咤激励をお願いします。

(大槻)小畑さんも体に気をつけてがんばってください。

 

 

いつでも、どこでも守る会の主体性を忘れずに   小畑芳三

 

今回は先のひかり協会理事長大槻高氏との対談です。私の大槻氏へのイメージは「敏腕の協会事務局長」「第2世代の活動家」というイメージがありました。事実、氏は協会の事務局で救済事業の立案企画に携わり、特に「救済事業のあり方」の議論を推進する上でも大きな役割を果たされました。その彼が守る会との係わり合いに北村藤一氏の存在があることや、境界事務局長への就任も北村氏の要請が強くあったことなど、初めて知ることができました。京都府本部の立ち上げから京都大学衛生学教室の山下先生との出会いや、親族の内田氏との出会いなどをうかがい、人の出会いの不思議さに思いを致しました。

大槻氏はあえて被害者役員にアドバイスをするならと、以下の点を挙げられました。「全国単一組織の堅持と間違った『都府県主義』の是正。主体性の発揮。民主的な討議の保障」などです。特に守る会の主導権と主体性を混同しないことを力説されました。これらのことを肝に銘じ、今後とも守る会の運営に尽力したいと考えを新たにしました。

 

 

⑩切り捨てられていた被害者とその家族にとっての救世主  丸山博氏

 

山博氏 略歴

一九〇九(明治四十二)年広島市に生まれる。大阪大学医学部を卒業後大阪府岸和田市で乳幼児死亡の問題を調査し発表。その後厚生省技官を経て大阪大学医学部衛生学教室教授。食品添加物にも着目し、有害食品研究会会長を務める。またインド伝承医学の研究をする「アーユル・ヴェーダ研究会」会長の活動もある。一九九六(平成九年)八十六歳で逝去。(写真は二十七年目を迎えて―森永ひ素ミルク中毒事件を考えるシンポジウムで発言する丸山博氏)

 

(本記事)

(編集委員会より)

守る会機関紙「ひかり」での連載は大槻高氏で終了している。しかし、この五十年間を振り返ってみて被害者とその家族にとって最大の恩人である丸山博先生の功績を記録しないことは忍びないと考えた。この五十年記念冊子を発刊するに当たって、「対談」の十人目として「登場」していただくこととした。当然ながら過去にお話しされたことや書かれたことからまとめるという方法しかなく残念ではあるが、本書を手にとっていただく方に、いま一度丸山先生の偉業を振り返っていただく機会となることを願い、あえて掲載した次第である。

 

生涯の研究テーマであった「乳幼児の死亡問題」

「私は大学卒業以来一貫して『乳幼児の死亡問題』を研究テーマとして参りました」原告側証人として裁判所で丸山博先生はそう述べた。実は先生が医学部を選び乳幼児の死亡問題を研究テーマとしたことには、その生育環境が大きく影響していたのである。一九〇九(明治四十二)年広島県に生まれたが、弟たち三人が病気のため次々と乳幼児期に亡くなってしまうという体験をしているのである。少年期に小さい子どもが死ぬ悲しみを知ったことがその後の研究にひたむきに取り組ませたと、著作の中で書いている。

さらに土木技術者の父について小中学生時に各地を転々としたのだが、よそ者扱いされていじめられたり、また土木工事に従事する朝鮮人労働者の生活を目の当たりにしたりすることによって、子ども心に考えさせられることも多かったようである。後年「今でも、社会でよそ者あつかい・差別などの事件に出会うと強く義憤を感じます」と述べている。

このような先生であったからこそ、社会から見捨てられていた被害児に対して「何とかしなければ」と考えたのであろう。

 

衛生学者としての反省の上に立った「十四年目の訪問」

そのような先生ではあったが、事件発生当時は厚生省の技官として入職したため東京に転居しており事件は新聞報道でしか知ることができず、「後遺症なし、解決ずみ」という報道を信じてしまったと言う。先の裁判所の証人尋問のなかでも「私自身、公的な宣言だけを軽信し、学会もまったく問題にせず気づくことが遅かったという批判は甘んじて受けます」と反省の弁を述べている。大阪府岸和田市の乳児死亡について画期的な統計手法を用いて衛生学者として貴重な仕事をし、また長年食品添加物に関する研究をして食品公害について非常に心配をしていた先生からすれば、まさに痛恨の極みであったのではないだろうか。

実は、「十四年目の訪問」の七年前に大阪大学で(昭和三十三年に大阪に戻っている)医学生に訴えている。「昭和三十年の被害児は、今小学生になったが、就学猶予児や就学不可能児は、どれくらいいるだろうか。学校保健、学校衛生の分野で、少なくとも国民義務教育が一九六八(昭和四十三)年で切れること、この中学卒業期までは国の責任で、この期間中は、公衆衛生行政の対象として配慮すべきだ」と主唱し、学校医らにも働きかけたという。しかし、何の反響もなく時間が過ぎていき被害者の中学卒業が迫ってきた。意を決して九州大学、岡山大学と共同研究を図ったがうまくいかなかった。こういう経過の中で、大塚睦子養護教諭の自発的な調査と保健婦たちの自発的協力による「十四年目の訪問」が生み出され(この訪問調査の手法は丸山先生の岸和田市における乳児死亡研究の方法がそっくり生かされている)、そして新聞報道、日本公衆衛生学会での発表となるのである。

丸山先生は「十四年目の訪問」の中で、「事実は語る」と題し、次のような序文を書いている。

「この冊子で学びとられるものは、昭和三十年の森永砒素ミルク中毒事件十四年間の被災児とその家族の事実である。考えねばならぬのは、この不幸の根元を根絶やしにする方法である。この仕事は、事件後の継続観察に無計画だった衛生学者の怠慢とその反省への努力の結果に基づく、私の発意を支持された保健婦・養護教諭・医学生の、良心的、自発的、自主的協力作業の収穫である。無辜(むこ)の被害者がこれまで十数年間苦しんだ悲憤への共感であり、同情であり、再び繰り返してはならぬ社会悪の告発であり、忠告である」

 

第二十七回日本公衆衛生学会

一九六九(昭和四十四)年、十月三十日に岡山市で開かれた第二十七回日本公衆衛生学会において、丸山先生らは「十四年前の森永MF砒素ミルク中毒患者はその後どうなっているか」と題して、主として大阪府下に在住する被害者六十七名の追跡訪問調査の結果を発表した。その日の模様を、同行した大塚睦子氏が著した小説『漁火(いさりび)』から一部を引用し、再現したい。

◆  ◆  ◆

(共同研究者である衛生学教室の若い研究員が追跡訪問調査の報告を十分ほどの持ち時間を使っておこなった後・・・)

終わるのを待ち兼ねたようにフロアから声があがった。六年前に阪大を定年退官し、今は森永乳業の顧問である西沢阪大名誉教授である。背が高くがっしりした感じの西沢教授は、私は事件当時厚生省から委託を受けて、被害児検診の基準を作成した専門委員会の委員長である、と胸を張った。

「ただいまの報告によると、被害児に後遺症があるとのことだが、われわれが当時検診した限りにおいては、後遺症と断定できる者はいなかった。私が検診した大阪では、保留三名がいただけである」と述べ、ついで全国一斉精密検診の結果について、

「この問題でもっとも重要なことは、ひ素は脳に移行しないことである。いやしくも医学を修めた者なら承知のはずである。『十四年目の訪問』の重症児の多くは、先天性の脳性まひである。ひ素と脳性まひの関連は考えられない」…

西沢教授は再度手をあげて立ち上がった。

「自分は『十四年目の訪問』を入手して全事例を読んだ。これだけ重要な調査に専門家は一人もいない。保健婦や養護教諭、医学生ばかりで臨床の医師は一人も加わっていないではないか。問題だ。このようなものを発表するのは学問研究をしようとしている者にとって、はなはだ迷惑なことである」

西沢教授の三列斜め前の席にいた丸山教授が、すっくと立ち上がっている。四方からフラッシュがたかれた。痩身の教授は、左肩を後ろに引いて会場いっぱいの参加者に向かって言った。

「いま西沢教授は、調査には専門家がひとりも入っていないので、信用できないと言った。この学会は、公衆衛生についての研究の場であり、公衆衛生は実践を伴う学問である。保健婦や養護教諭は、現場にあって公衆衛生実現のための最前線の実務者であり、専門家である。もし彼らの報告にいささかの疑念があるとすれば、それを研究することこそ学者の任務ではないのか。その任務を忘れて、頭から一蹴(いっしゅう)しようとする態度は、学者にあるまじき不見識な態度であり、学者の使命を忘れた不遜(ふそん)な態度である。そのようだから国民は、学者を信用しないのだ」

わっと拍手がわいた。

歯切れよく力のこもったその声は、満員の会場に響き渡った。その毅然(きぜん)とした態度は普段の先生からは考えられもしなかった。これで軍配は丸山教授だと思ったらふたたび、西沢教授が立ち上がった。

「この『十四年目の訪問』は、保護者が語ったそのままを書き留めたものにすぎなかいのだ。保護者の中には、記憶違いをしているものもいるだろうし、自分に有利なように事実と違うことを言ったものもあるであろう。それらを無批判に記述している。…」

ふたたび丸山教授が立った。

「いま西沢教授は、保護者がしゃべったものは信用できないと言った。信用できるかできないかを検証するのが学者の姿勢だ。ましてこの事件は、世界でも例を見ない事件であった。この悲惨な事件の犠牲になった赤ちゃんを、その後一度も追跡していないのは、私も含めて学者の怠慢である。この十四年間、子どもに寄り添ってつぶさに子どもを見てきた親たちの観察、後遺症なのかそうでないのか、その真偽を研究者として検証することこそ、専門家の任務である。学会はそのためのものである。われわれは、後遺症があるなどとは一度も言っていない。あるのか無いのか、それを究めることがいま求められているのだ」

わぁーという喚声とともに拍手がおこった。開け放たれた窓に身を乗り出して中の様子を見ているたくさんの顔が見えた。学会員でないため入場できない被害児の親たちであった。どの顔も涙でぬれていた。

フロアからの発言時間は、約束をすでに大幅に超えている。しかし、白熱したやりとりに司会者はあえて関連発言を許した。

前に立ったのは、岡山の遠迫(えんさこ)医師である。

「私は、事件が終結した翌年より、守る会の皆さんに頼まれて被害児の検診をずっと続けてきた。その中で岡山でも中毒児の異常が見られる。脳神経系にひ素が移行したと考えられる赤ちゃんもいる」

彼は、スライドを使って報告をした。思いがけない援軍であった。この件だけですでに五十分を経過した。司会者は第二分散会を設けて討論を続行することを宣言した。異例のことだった。学会は盛会のうちに終わった。…

十一月に入って、守る会全国組織が発足した。「一人はみんなのために、みんなは一人のために」が合言葉だった。

◆  ◆  ◆

あの痩身(そうしん)なお体のどこから出てくるのであろうかと思ってしまう力強く堂々たる論陣である。その後の守る会の再結集、国民的支援を受けた闘い、そして今日に至る恒久救済への道は、実にこの「丸山報告」からスタートするのである。

十四年間見捨てられていたわれわれ被害者とその家族にとっては、まさに救世主と呼ぶべき大恩人であった。

丸山博先生、一九九六(平成九)年十月十日、永眠。享年八十六歳。

合掌

 

 

 

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