守る会のたたかいと恒久対策案

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守る会のたたかい

守る会の再結集

丸山報告が発表される前日の10月29日、岡山で活動の灯をともしていた「森永ミルク中毒のこどもを守る会』は丸山教授を囲み、緊急総会を開き、「私たちは14年間救世主を待ち望んでいた。今前途に二つの光明がさしはじめた。一つは高松高裁の森永無罪の差し戻しである。もう一つは丸山報告である。心から感謝する」という声明を発表しました。

そして全国の被害児の親たちに結集を訴えました。

こうして親たちの再結集が始まり、1969年11月30日に全国13都府県から150名の親たちが集まり、「森永ミルク中毒のこどもを守る会」第1回全国総会が岡山で開催されました。

 

支援団体や自治体の取組

当時は様々な公害問題があり、社会全体が公害反対の気運で盛り上がっていました。これが有利に働き、まず、各地の医学者・医療関係者が支援に立ち上がりました。被害児の追跡調査を開始し、その検診結果の検討会をするなかで、被害者に健康と発達に問題があることが明らかにされてきました。

また、医療関係者以外にも法律家や諸団体・個人が集まり各地に「対策会議」がつくられ、自治体の中にも精密検査の協力をおこなうところも現れました。

 

森永との交渉と厚生省の姿勢

守る会は当初1年間は交渉をせず組織の整備に力を注ぐとしていました。しかし今すぐに救済しなければならない被害児も多数いることがわかり、森永と「現地交渉」「本部交渉」の二本立てで交渉することとしました。現地交渉ではある程度の成果をあげていましたが、森永は本部交渉を一方的に中断したり、事件と被害症状の因果関係を認めようとしませんでした。

一方厚生省側は被害者救済に前向きな姿勢を取り始め、社長に誠意を出すように指示しました。

 

 

森永措置案と恒久対策案

森永措置案

徐々に森永は世論や国に押され、守る会からの「恒久措置案」を示せという要求に対し、「森永措置案」を作成してきました。しかしそれは、困っているなら何とかしてやるから、因果関係とか企業責任とは言うなという高姿勢のものでした。

 

恒久措置案の作成

森永措置案を全面的に拒否した守る会の親たちは、それなら自分たちの主張に沿った案を作ろうと決めました。

守る会は組織内に作業委員会を設置し、組織討議を繰り返して、1972年8月20日の第4回全国総会で「森永ミルク中毒被害者の恒久的救済に関する対策案」(恒久対策案)を決定し、すぐさま森永に申し入れました。

この恒久対策案は、被害者がみずから作成したという点で公害運動史上初のものであり、守る会はすべての力を結集して恒久対策案を実現しようというもので、運動の新しい局面を切り開くものでした。

 

<「不売買運動と訴訟」に続く>

 

 

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